第三章
ヴィンス -1-
穏やかな波の音が聞こえていた。
繰り返す漣に意識を向けていると、次第に感覚が戻ってくる。
瞼を開く。オレンジ色の明かりが包む、室内の高い天井に、ダークブラウンのシーリングファンがゆっくりと回っている。部屋の中を適温のそよ風が巡っていて、心地よい。
俺は今、一体どこにいる。ショド岬でシンさんに電話して、それから……。
そこまで考えが巡って、俺は慌てて飛び起きようとした。
「っつ……」
体に力を籠めても、上手く身動きがとれなかった。両手両足を縛られている。何とか腹筋を使って上体を起こすのと同時に、後頭部に疼痛が走って、呻く。
頭を振り、周囲を見回す。ホテルのように、統一したインテリアコーディネートが成された、綺麗な洋室だ。俺はそのフローリングの床の上に、投げ出されていたらしい。
部屋には広く開放的な掃き出し窓があり、カーテンが開かれているので、そこから海が見えた。もう陽が沈むところで、空も海も、赤く染まっている。
「ここは、一体どこだ」
呆然と、一人呟いた時だった。
「おや、起きたんだね」
真後ろから男の声がして、俺は勢い良く振り向く。けれど首の回る限界を超えた。
バランスを崩して、そのまま床に倒れ込む。また後頭部が痛み、思わず顔を顰める。
しかし、おかげで後ろを見ることができるようになった。
床に倒れ込んだまま、見上げる。そこには、悠然と足を組み、ソファに腰かけた男がいた。
艶のある黒の髪。長めの前髪を斜めに流し、半ば片目が隠れている。そこから覗いている、やや垂れ目がちな瞳は銀色をしていた。通った鼻筋に、形の良い厚みのある唇。誰がどこからどう見ても、美形と形容すべき端整な顔立ち。
ラフなVネックの白のセーターに、黒のチノパンを履いている。
歳も体格も、俺と近そうだが、放っているオーラが異質だ。片手にはハードカバーの本を持っている。今まさに、このオシャレで快適な部屋にて、読書を愉しんでいたようだ。
そこまでは別に良い。意識のない俺という刑事が、手足を縛られ転がされている真ん前で、という特殊条件さえなければ。
「お前、何者だ」
「頭、痛むのかい? すまないね、あの場に僕がいれば、手荒な真似はしなかったんだけど」
警戒心を露わに問いかけたが、男は俺への返事をしなかった。代わりに、そんな気遣わしげな言葉をかけてくる。手にした本を閉じて置くと、ソファから立ち上がって、俺の方へと近づいてきた。
「やめろっ!」
何をされるかと身構え、縛られた手足で懸命にもがいたが、男は俺の胸に手をあて、片手を自分の口元へと運んだ。人差し指を立て、シーッと息を漏らす。
落ち着けとでも言いたいのか。一瞬、その行動に不意を衝かれた。
俺の動きが止まったのを見計らって、男は片手で、俺の後頭部を探る。その指先が後頭部の一部分に触れると、また痛みが走る。
「瘤ができているね。でも、外傷にはなっていないみたいだから安心して。吐き気などはある?」
銀の瞳が俺を見ている。その表情には緊張感がなく、言葉の通りに、ただ俺の様子を気遣っているだけのようだ。こんな状況でもなければ、何と優しい人物だろうかと、感心していたに違いない。
「お前が連続誘拐事件の犯人なのか。一体何が目的で俺を、あの時……」
そこまで言いかけて、俺ははたと思い出した。そうだ、あの時、ショド岬で俺はノラと一緒にいた。俺がこうして捕らえられているのなら、ノラは……。
「おい、ノラはどうした。俺と一緒にいた女の子だよ。まさか、あの子も連れてきているのか。あの子に傷一つでもつけてみろ、ぶっ殺してやるからな」
頭に血が上って、語気を荒げる。再び全身の力を籠めてもがき、何とか男に蹴りの一撃でも食らわせようとする。
男は、そんな俺から距離を取るように立ち上がり、溜め息を漏らした。
「まったく、会話にならないな」
はじめに俺の問いかけを無視したのはお前だろう、と食ってかかりたかったが、俺は動きを止めた。なぜなら、男の口から、予想外の言葉が出てきたからだ。
「ノラ、こっちに来てくれるかい?」
男がどこかへ呼びかけると、部屋の扉が開いた。そこから、ピョコリと顔を覗かせたのは、紛れもないノラ本人だ。
「なっ……んで」
彼女は手足を縛られている様子もなく、しかし、ひどく申し訳無さそうな表情を浮かべて、恐る恐るといった様子で部屋の中へと入ってくる。
驚愕の表情を浮かべ固まった俺に見せるように、男もまた、ノラの方へと向かうと、彼女の肩に腕を回した。
「ほらね、ノラは元気だよ。ちょっと落ち着いてもらえないかな?」
「大丈夫か、ノラ。脅されているのか。待ってろ、すぐに助けてやるからな」
俺は男を無視して、ノラに語りかける。彼女が無事な様子なのはわかったが、きっと俺の身の安全か何かを盾に、言うことを聞かされているに違いない。
彼女は軽く眉を寄せたまま、俺の視線から逃れるように俯いていく。
「あのね、ショド岬でユージのことを殴って昏倒させたのは、ノラなんだよ。僕はノラから呼び出されて、そこに向かったんだ」
「……は?」
男から為された説明に、腹の奥から声が出た。男が自然と俺の名前を呼んだことは、どうでも良かった。ただ、その内容は聞き過ごせない。
「ごめんなさい、ユージさん……あの場所ではそうするより他なかったんです。あの、頭、痛みますか?」
ようやくノラが口を開いたが、彼女の言葉は、男の説明を肯定するものでしかない。
「どういうことだ、お前は誘拐犯の仲間だったのか」
床に転がったまま二人を見上げ、自分でも驚くほど、ドスの利いた声が出た。睨みつける俺の眼差しに怯んだように、ノラは男の影に逃げる。
「ありがとう、ノラ。後は僕が何とかするから、もう帰っていいよ」
そんな彼女を気遣うように男は告げ、その背を促して、彼女を部屋から出す。彼らの様子を見ながら、俺は無力感に苛まれていた。
ノラと過ごした日々は短い。それでも、彼女は献身的に捜査をしていた。過去の事件の資料を取り揃え、俺が疑問を抱いた時には、いつだって的確に答えてくれていた。ミミサキ市を守るために刑事をやっていると、そう言っていた彼女の眼差しに、確かに熱はあったのに。
その全てが、嘘だったのか。
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