身代金受け渡し日 -2-
そうして会話を続けていると、進行方向右手に海が見えてきた。海沿いの景色を楽しみながら走れば、すぐに目的地へつく。ショド岬の駐車場だ。
トライデア・ホテルの位置を、ミミサキ市の西側の海岸と形容するならば、ここショド岬は南側の海岸にあたる。
車を駐めると、降りようとするノラを制する。
「俺が様子を見てくるから、まずノラはそのアタッシュケースと一緒に、車内で待っていてくれ。指定された場所はこの先だな?」
「はい。あの公衆トイレの横を行くと、すぐに広場です」
「了解」
ノラが指差した先を確認し頷いて、俺は一人で外に出た。髪を乱す程の強い海風は冷たいが、日差しは暖かい。
駐車場を抜け、小屋のような外観の公衆トイレ横の通路を抜けると、ノラの言う通りにすぐに広場へと出た。
広々とした地面には、白と青のモザイクタイルが敷き詰められ、大きな文様を描いている。辺りには何も遮るものがなく、海が見渡せる。実に気持ちの良い空間だ。
オフシーズンだからなのか、平日だからなのかはわからないが、人影はない。
広場の奥の方へと向かうと、胸のあたりまでの高さの柵が設けられていて、その手前には一定間隔でベンチが設置されている。
柵に手をかけ、海を眺める。空と海の境界線が、まっすぐに横へ走っている。晴れ渡った雲ひとつ無い空に、太陽の光を反射する、キラキラと輝く海。近くに島などもないので、本当に見渡す限りの海だ。ただそれだけの光景が、息を呑むほど美しい。
できれば観光で来たかったな、という想いを秘めたまま、俺はそこから改めて広場の方を振り返った。その名称の通りの広々とした空間。高さのあるものといえば先程通ってきた公衆トイレぐらいしかない。
これでは何かの仕掛けをしようと思っても難しい。そもそも、俺達が隠れる場所を探すのも難儀だ。俺は公衆トイレの脇にでも隠れ、ノラには、観光客を装ってこの辺りのベンチに座っていてもらおうか。
張り込みの作戦を考えながら、昨日見て回った他二箇所の身代金受け渡し場所とも照らし合わせる。
ここも、逃走経路としては厳しいものがある。車で広場の中にまで乗り付けることはできず、徒歩での出入りにも、俺が通ってきた道を来るしかない。
何故犯人は、こうまで合理性のない場所を指定してくるのか。そして、何故それが九回も成功しているのか。
広場中央の地面にも仕掛けがないことを確認し、俺はノラを迎えに行った。
「俺が一人で身代金を置きに行くから、ノラは時間差で観光客を装って、奥のベンチに座っていてくれ。俺は公衆トイレの影に隠れて監視を続ける。アタッシュケースに近づく者がいたら、即時確保する」
「了解しました」
ノラに指示をしながら腕時計を見れば、もうすぐ指定の時間だ。
アタッシュケースを受け取り、ノラの手首にかけていた手錠の鍵を外す。アタッシュケースからも手錠を取り除き、一人広場へ戻る。
指定の時間の一〇分前であることを確認し、広場中央の地面にそれを直接置いた。
笑っている場合ではないのだが、なんだかおかしい。普段一イェロを節約しようと躍起になっている自分が、一〇〇〇万イェロを広場の真ん中に放置するのだ。
緩みそうになった表情を引き締め、そのまま踵を返し、広場から出ていくふりを装う。そんな俺とすれ違いで、ノラが広場の中へと入っていく。
俺は少し遠回りをして、公衆トイレの反対側の外壁脇に陣取ると、腰を落とした。
広場の方を覗き込めば、ノラが奥のベンチに座っているのが見える。後はただ、犯人が姿を表すのを待つしか無い。
全身に緊張を漲らせ、一瞬たりともアタッシュケースから目を離さないようにしていた俺にとって、その後の時間は非常に長かった。
広場には誰も姿を見せず、風と波の穏やかな音だけが響く時間。
あまりに代わり映えしない様子に、違和感を覚えだした時。
ポケットに入れていた携帯電話が震え、ビクッと体が揺れた。対象からは視線を外さぬまま、携帯電話を取り出し開いて、通話に出る。すると、『わたしです』とニシキ課長の声がした。
「一体どうしました?」
こんな時に一体何の用事かと、邪魔に思いながら潜めた声で問いかける。
『たった今、リリちゃんが帰ってきましたよ。事件は無事解決ですね、お疲れ様でした』
何の気負いもなく、淡々と告げられた言葉。
俺の脳は一瞬、その内容を理解できなかった。
「……なんですって?」
『ですから、被害者のリリちゃんが帰ってきました。怪我一つなく元気にしています。いやー、良かった、良かった』
ニシキ課長の、気の抜けるような声を聞きながら腕時計を確認すれば、時刻は一三時五分。身代金受け渡し指定時間の一時間後であり、犯人が、被害者を返すと言っていた時間である。
俺は返事もせずに通話を切ると、公衆トイレの影から飛び出して、アタッシュケースの元へと走った。
嘘だ、そんな馬鹿なこと、ある訳がない。
俺は一瞬たりともこのアタッシュケースから視線を外さなかった。誰も近づいて来なかったし、誰もこれに触れていない。
ならば。
ドクドクと煩い程に高鳴る、自分の心臓の音に気づきながら、俺は震える指でアタッシュケースを開く。
ケースの中は、空だった。
紙切れ一つ入っていない。
持ち上げれば、先程運んでいた時のような重みは感じなかった。これはただのケースだ。では一体中身は、一〇〇〇万イェロはどこへ行ったのか。
物に触れることなく、蓋を開けることなく、アタッシュケースの中身だけを、忽然と消えさせる。そんなこと、人にできる芸当なのか。
呆然とした俺の耳には、漣の音が、耳鳴りのように響く。
異変を察知したようで、ノラもこちらへと近づいてきた。
「ユージさん? どうかしたんですか? リリちゃん、帰ってきたんですか?」
何か問いかけられていることはわかるが、俺の思考は、意味を成さない堂々巡りでフル稼働していて、答えてやることができない。
ふと、アタッシュケースを置いていた地面を見た。
青と白のモザイクタイルで描かれた文様。
大きな真円の中に、小さな五つの円が、花びらのように等間隔に配置されている。その中心性のある文様が描かれていたから、俺はここが広場の中央だと判断できた。
そして俺は、この文様を以前にも見たことがある。
握りしめたままだった携帯電話を操作し、俺はシンさんの番号を呼び出した。
『おう、ユージどうした、捜査順調か?』
電話を耳に押し当てる。数コールの後、聞こえてきたシンさんの、いつもと変わりない声に、少しだけ気持ちが落ち着く。
「シンさん、円の中に、小さな五つの円が描かれている柄が入ったライター、持ってましたよね。あれってどういう意味なんですか?」
勢い込んで聞いた俺の唐突な言葉に、シンさんは少し戸惑ったようだ。だが、特に理由を尋ねたりすることもなく答えてくれた。
『あれはシィカスサークルって言って、潜神教の神様のシンボルだよ。シィカスの花を図形化したものだ。シィカスは天然の燃料になるっていうのは、お前も知っているだろう? その力にあやかって、良くライターとかマッチには描かれているんだ。シィカス自体が神様からの贈り物だって、潜神教では考えているみたいだな』
シンさんの言葉を聞きながら、俺の中で、ミミサキ市で見てきた光景が、浮かんでは消えていく。
通信記録にさえ残らない、犯人からの電話。
犯人を庇う幼い被害者達。
トライデア・ホテルの東屋の中にあった、五つの丸石。
セイイロ自然公園の、大石の周りに生えたシィカスの樹。
そしてここ、ショド岬の広場中央に描かれた、シィカスサークル。
「――神様の悪戯」
ホセが話していた言葉が、不意に脳裏を過り、そう呟いた瞬間。
俺の後頭部に、鈍い衝撃が走った。
視界に星が飛び、グワンと脳が揺れ、世界が回る。意識が、遠のいていく。
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