第71話

 

「お久しぶりです隊長ォオオオ!!!」


 勢い余って小柄な男に飛びつかれそうになったところを、ウェインはもちろんすばやく避けた。そうすることで、目の前の男が壁に顔から激突していたが、もちろんなんの後悔もない。でも一応問いかける。「……大丈夫か?」「お久しぶりですぅ……」「大丈夫そうだな」 男の鼻はぺっちゃんこになって、額も真っ赤になっていたが問題なさそうだ。


 ふわふわとした猫っ毛の髪の青年だったが、ウェインよりも年は二つか三つは上だったように思う。けれども彼はもとはウェインの部下であり、今も犬っころのようにはたはたと尻尾を振っているような仕草ですぐさまぴょんと跳ねて立ち上がった。それから白い歯をにっーっと見せて、にかっと笑って、すぐに不本意そうに眉をひそめて口を尖らせた。


「隊長! エハラジャ国に来るなら、ぜひうちに来てくださいってあんなに伝えておいたじゃないですか! 俺、めちゃくちゃ待ってたんですよ!」

「色々あったんだ。それにメイス。お前だって暇じゃなかったろ」

「隊長のためなら暇を作ります! 嘘です、アリシア様になんとでも土下座してがんばります!」

「そっちが嘘であってほしかったんだが」


 まさか今日の非番もそうやって作ったんじゃないだろうなと胡乱に見つめるウェインに、「残念ですがたまたまです!」「まったく残念じゃねぇよ」 思わずため息が出た。


 土下座をしそこねてしまいましたねとにこにこ笑う元気な男の名前はメイスという。

 彼は半年前まではウェインの直属の部下だった男だ。メイスはウェインよりも背が低く、どこか人懐っこい顔つきで、我慢が苦手な、すぐにこちらに駆けてきたがるような雰囲気は犬っぽいともいえる。メイスはウェインの指揮のもと各地に遠征をした王国兵の一人であり、平民でありながらも珍しく火の魔術の適正を持っている。過去、アラクネという魔族と戦った際、メイスはウェインと一緒に死にかけた。もう一年以上も前のことだ。


 ウェインがレイシーとわかれて、まっすぐやってきたのはメイスの自宅だった。

 王宮に戻るような道筋を歩いてたどり着いたのは一軒家だ。やはりどこの家も同じなのか、風通しをよくするために窓は開けっぴろげられており、家具も少なく家というよりも、まだなりきれていないようなよそよそしさを感じた。それはまだメイスがエハラジャ国に来て日が浅いからかもしれない。メイスはウェインとともにアラクネを倒した功績として見事出世を果たし、アリシアの護衛役としてエハラジャ国に籍を移動させることになったからだ。


 一応もとは上司と部下だが、年は数歳差とはいえあちらが上だ。口調を改めるべきか、どうするかと迷ったが、結局いつもどおりのメイスを見て、ウェインは気にしないことにした。


「いやもう、最近寂しくて寂しくて、隊長に会えて本当に嬉しいです!」

「寂しいってお前な。結婚していただろう。奥方はどちらにいらっしゃるんだ?」


 メイスはアリシアとキーファの婚姻が確実となった際に、エハラジャ国での基盤を固めるためにアリシアよりも一足早くこの地に向かったはずだ。そのとき、彼の妻もともについて行ったように記憶している。新婚だときいていたから気にはなっていたのだ。ウェインは奇妙に感じて椅子に促されながらも周囲を見回したが、家には誰の気配もないようだ。


「嫁はちょっと前にクロイズ国に返したんです。俺、子供が生まれるんです! 嬉しいです! ……でもさすがに異国の地で産ませるわけにはいきませんから」

「そうだったのか」


 時間は進んでいる。ふとしたとき、そう思う。ウェインはまだまだ若い。先の道の方がずっと長いはずなのに、すでにもう大半を過ぎ去ってしまったような気になってしまうことがある。「何にせよ、生まれたときは教えてくれ。祝いの品を贈りたい」「やったあ! ではなく。隊長は、どうなんですか?」 すい、と目の前にからのコップに酒を進められたが、片手で断る。大丈夫だろうとメイスのもとにやってきはしたが、やはりレイシーのことが気になる。


「相変わらず真面目ですね。飯はくいますか? よければご一緒しませんか。この国、とにかく暑くて食欲がなくなっちゃいますよね」

「ここに来るまでに食った。気にするな、お前だけ食え……と、いうかお前は妙に元気だな」

「炎は俺の味方ですから。ちょっとやそっとじゃへこたれません! ところで、隊長はどうしてこの国に?」

「言えん」

「任務ですか」

「言えるかバカ」

「もしやこの暑さをどうにかなさるおつもりで!? さすが隊長だぁー!!!」

「人の話を聞け」


 妙な察しの良さに呆れてしまいそうになりつつ、酒の変わりに出されたラベールのジュースに口をつけた。


 他愛もない話をしていたつもりが、いつの間にやら時間は進んでいく。ウェインは酒を控えたから、メイスも彼に合わせていたはずが、いつの間にかべろんべろんになってテーブルにふせっている。どうしてこうなったのかわからないが、うひゃひゃと笑いながらメイスは「どぉん!」と立ち上がった。そろそろ帰りたい。ちなみにどぉん、という言葉は効果音ではなく、メイスが自分の口で言いつつ勢いよく椅子から飛び上がって大の字になっていた。


「お前、間違えて酒でも飲んだのか……?」

「うひひ、もしかして底の方に残ってたのをちょびっと飲んだかもしれましぇん!」

「しぇんじゃない、しぇんじゃ。コップはちゃんと洗え。そもそも飲み残すな! いや台所、きたねぇな! 掃除していいのか!?」

「あのときの隊長! めっちゃかっこよかったです! アラクネを前にして、ズダンッ、ズダァンッ! カッチョいい!」

「やめろ。だからやめろ。俺を殺す気か、恥ずかしくて死ねってか!」


 メイスはウェインを思い出しているのか、アラクネとの死闘を思い出し、彼なりに真似をしているらしい。恥ずかしいと言ったものの、酔っているとはいえ案外必死なメイスの顔を見ると、思わず吹き出してしまいそうになった。ウェインが口に手を当てて笑いを噛み殺していたとき、メイスはぴたりと動きを止めた。「……隊長、俺、本当に怖かったです」


 ひたり、とこぼれ落ちたような声だ。表情すらもなくして、ぬるい空気がしんと冷えてしまいそうな、そんな感覚に陥った。ウェインは今、メイスの家で、ただの椅子に座っている。そのはずなのに、どこか違う場所にいるような気がする。ぽちゃん、ぽちゃん。したたるような水滴の音は、洞窟の中にいるからだ。暗い、どこまでも続くような細く薄暗い狭い穴をくぐり抜けた先に、女がいた。つるりとした裸体は半身のみ。その半分は蜘蛛だった。一面にざわざわと何かが波のように広がっていた。全ては魔物だ。女が、生み出していた。


 それよりも恐ろしい記憶は、いくらでもある。窮地など、いくらでも乗り越えてみせた。けれどもあのとき、アラクネを前にしてレイシーの匂い袋と薬草がなければ、ウェインも、メイスもそのまま命を落としていたかもしれない。逃げろとウェインが叫んだ中で、ただ一人逃げなかったメイスを道連れにして。彼は一番の下っ端で、底抜けに明るい青年だったが、頬を涙と泥で濡らしても、必死に灯りを消すまいと呪文を叫び続けていた。


(恐ろしさを感じながら、前に進むことができる人間は、そうはいない……)


 自分は、ただ心を鈍くさせているだけだ。メイスのようにはなれない。そして、レイシーのようにも。

 ぬるい風が頬をなでたとき、はっとウェインは瞬いた。ここはメイスの家だ。アラクネが生まれ落ちた洞窟でも、なんでもない。


「死ぬかと思いました」


 すっかり酔いが覚めたように、埃だらけの天井を見ながら、メイスはぽつりと呟く。その言葉の裏側には、死ななくてよかったと噛みしめるような思いも見えた。子供が、生まれるのだから。


「隊長がいなければ、俺は死んでいました。妻からもらったあの不思議な匂い袋がなければ、アラクネの毒にやられていました」


 レイシーが作った匂い袋は、汚臭を浄化するだけではなく、その場の空気全てを浄化する仕組みを持っていた。そのことはレイシー自身も、妻からもらった袋をお守りとして持っていたメイスでさえも知らなかったことだ。


「ここに来てからですが、妻から手紙をもらいました。あの匂い袋は、アステール印の魔道具なのだと。そして、作った人はレイシー・アステール。暁の魔女様なのだと。隊長、あなたと昔、魔王を倒した、その人なんですね」


 レイシーがアステールの品を作ったことはすでにクロイズ国の住人には周知の事実となっている。メイスの妻も、クロイズ国に戻り驚いただろう。

 人懐っこい顔をした青年は真摯にウェインを見つめた。はくりと口を動かし、言葉を飲み込む。握りしめた拳を震わせて、そして、「暁の魔女様に会いたいですうううううう!!!!」「お、おう……」 冒頭に戻る。


「お願いします、お願いしますよ隊長ォー! 会わせてくださいいいいい!!」

「これが成人した男かと思うと正直俺はびびってはいる……」

「びびってもらって結構です! 魔女様はもとは隊長の仲間なんですよね、隊長ならどこにいらっしゃるかご存知なんですよねェ!!!?」

「知ってはいるがな……言うわけないだろ……」

「嫁からも! お礼を言いたいと言われてるんです! 魔女様は俺の命の恩人です、どうか、どうぞ、どうかー!!」


 まるでウェインにすがりつくごとく泣き出すメイスを見て、ウェインは青筋を立てた。まさか今、レイシーがエハラジャ国に来ていて、すぐそばにいると知ったらこの男はどうなってしまうのか。想像もしたくない。


(……何が、結婚しないか、だ)


 メイスを振り払いながら、ウェインは自分自身の中にある異なる苛立ちに気づいてはいた。あのとき、思わず男の腕を振り払ってふざけているのかと問いただしたかった。けれどウェインにはそんな権利もないし、レイシーは子供でもなんでもない。いくら保護者のような顔をしたところで、ウェインに何を言う権利など、どこにもない。


 口を出すべきことではないと思った。だから言葉を飲み込んだ。ふつり、ふつりとときおり湧き出るような、そんな気持ちがある。いつしか飲み込むようになって、ごまかしてを繰り返していた。


「えっ、もしかして隊長、怒ってます?」

「……怒ってねぇよ」

「いや怒ってます!」

「怒ってねぇ!」

「でも暁の魔女様には会いたいです!」

「せめて本人に許可をとってからだ! すがりつくな!」

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