ウラシマ

淡 今日平

招待

 1576年3月3日、ウラシマは漁を引き上げ、帰途についた。釣果ちょうかは乏しく、飢えに苦しむ老母のことを思うと足取りは重かった。昨晩遅くよりの悪天候は、未だ海原を荒らしている。湿気を含んだ冷たい風が頬を冷やし、気分が悪い。黒っぽい浜を歩いていると、遠くに3人のわらべが見えた。近づいてゆくと、どうやら打ち上げられた海亀を捕らえようとしているらしい。腹を空かせた母への土産に海亀を持ち帰ればどうだろうか。ウラシマは釣り竿を振りかざして、童たちを追い払い、海亀に近づいた。彼とて、童たちもまた飢えていることを知らないわけではない。しかし、それを考えるには、彼自身も腹が空きすぎていた。


 海亀は大分弱っているようで、動きは鈍い。ウラシマは海亀を打つための手頃な石を探しながら、一言語りかけた。

「悪く思わぬことだ。お前とて、海苔のりやら、海老やらを食ろうているのだろう」

ウラシマが、これと思った石を拾い上げようとしたとき、どこからかかすかな声のような音が聞こえた。先程追い払った童が、諦めきれずに帰ってきたのかと耳をそばだてると、たしかにこう聞こえた。

「御慈悲をいただきありがたいことです」

童の言にしてはおかしい。ウラシマがよくよく声の出どころを確かめると、どうやら海亀のあたりから聞こえてくる。

「現し世の浜へ打ち上げられ、最早天運尽き果てたりと存じますれども、かようにお助けいただき、お礼のしようもございません」

間違いない。話しているのはこの海亀らしい。あまりの空腹にとうとう耄碌したかと訝りながら、ウラシマは海亀の話に耳を傾けた。

「この上は、常世は竜宮へお連れ遊ばし、主より褒美を下賜いただくが筋道というもの。何卒、竜宮へお越しください。」

竜宮に褒美。どうやら耄碌具合は相当に悪いらしい。ウラシマは自身を嘲るように語りかけた。

「竜宮へご招待とは、いよいよ俺の天運こそ尽き果てたと見える。俺をその背に乗せて、水底みなそこに引きずり込もうとでもいうのか。褒美というのは永久の安楽な眠りのことか。なるほど、実に魅惑的なご提案、誠に痛み入る。ただ、このウラシマは母を一人残して泡と消えるわけにはゆかぬのだ。なんでもよいから、腹を満たせるものを持っていってやらねばならぬのだ」

ところが海亀は、こともなしとばかり続けた。

「なるほどそれでは、ウラシマ殿がお帰りになりたいときにはすぐさま現し世にお戻しいたしましょう。それから母君へのお土産もお持ち帰りくださいませ。さしあたってはこれをお納めください」

というと、海亀の甲がぼんやりと怪しく光った。するとたちまち、十ばかりの魚が波間から飛び出してウラシマの家の前に落ちた。

「これで母君が飢えることはありません。ウラシマ殿がご不在の間も欠かさずお届けすることをお約束いたします。これで心置きなくお越しいただけましょう」

それを見たウラシマはすっかり肝を潰したが、一方、これは幻ではないかもしれぬと真面目に取り合う心づもりが湧いてきた。

「母の食い物を用意してもらってありがたい。その竜宮へはどうやって向かうのか」

海亀は浜から海へ入り、半身を沈めると

「私の背にお乗りください。すぐに竜宮までお連れいたします」

と答えた。見ると、海亀は先の倍ほども大きくなり、甲は透き通るように青紫の輝きを放っている。いよいよウラシマの猜疑心は押しやられ、竜宮の魅惑が心を捉えた。ウラシマは海亀の背にまたがると

「このまま行けば、母が心配するだろう。どうしたものか」

といった。海亀は

「今晩、母君の夢に立ち、委細の事情をお伝え申し上げましょう」

というが早く、みるみる沖へ泳ぎだした。ウラシマが息を止める間もなく、二人は海中に没した。

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