拝啓 親愛なるヴィンス君
Jack Torrance
拝啓 親愛なるヴィンス君
「拝啓 親愛なるヴィンス君
今、私は長年に渡る慢性の肺疾患だけでも、ただでさえ悩まされているのに、ここに来て悪性感冒により病床に伏している。
排泄の際にベッドから身を起こす事でさえも億劫になっていく始末である。
3階のアパートの窓から通りに視線を移すと悪性感冒の影響もあってか子供の数は少ないが通りを元気に駆けて行く姿を目にする。
昔の私もあんな風に自由に行きたい所に行き青春を満喫していたなと回顧する。
それが、今ではどうであろうか。
排泄に行くのにも尋常でない体力を要している。
排尿の切れの悪さに手こずりベッドに戻りしっくいが剥がれ掛かったミントカラーの天井を息を切らしながらぼんやりと見つめていると天井が徐々に降下してきて私はベッドと天井に挟まれて圧死するのではないかという幻覚に捕らわれる。
階下からは父親が子供を折檻する声が聞こえて、隣室の薬物中毒者の日夜を問わず騒ぎ立てている騒音と奇声に頭を痛めている。
このぼろアパートは壁が薄い。
ここは地上の楽園から程遠い断末魔の巣窟と化している。
朝方に睡魔に襲われこのまま逝ってしまってもいいと思いながら夢見心地な気分になりかけると階下の大家のミセス ゴーリーが鳩どもに餌付けをしてクルックーとけたたましく鳩どもが泣き喚く始末である。
ともすれば、たまに訪れる深夜の静寂を鼠やゴキブリどもがカサカサと徘徊し私の神経を衰弱させる。
昨日、ドクター リンクが往診にやって来た。
私は肺疾患を抱えているので酸素を取り入れる力も衰えており、天命は何時尽きるかも判然としないと言って帰って行った。
私は、パンとチーズを齧りミルクを飲み、幾ばくかでも滋養をつけようとしている。
温かいチャウダーや肉を焼いてグレイビーを掛けたマッシュポテトなんかでも拵えて食べれば良いとも思うのだが精も根も尽き果て作る気さえ起こらない。
現在、こうやって机に向かい筆を執り手紙を認めている事でさえかなりの労を要している。
まだ、この命が尽き果てていなければ、また手紙を認める所存であるが明日の身は知れぬ故どうか君も元気でいてくれたまえ。
我が唯一無二の親友であるヴィンス君。
君が悪性感冒にかからない事を切に願う。
1918年10月4日 君の親友 ジム マッケンナ」
「拝啓 親愛なるヴィンス君
神は何の因果応報かは知らぬが、まだ私を生かしておられる。
日に日に体力は衰え気力も困憊し、いっその事私を往生させてくれればいいのにと心底願う。
昨日、大家のミセス ゴーリーがやって来た。
家賃の滞納分の催促である。
私は半年の間ずっと家賃を滞納している。
別に金が無い訳ではない。
あの強欲なミセス ゴーリーには、びた一文払いたくないからである。
病床で死の床に伏しているこの私にあの強欲女はのべつ幕無しに啖呵を切り来月までに支払わなければ退去させると言うのである。
まさに鬼畜の為せる技である。
鳩に餌付けをするゆとりがあるのだから、あの強欲女は放っておこう。
私はそう長くない身だ。
箪笥には今まで貯めて置いた金が眠っている。
私は死者に金を使うのは無駄な事だと思っている。
正しく、それは死に金である。
金は生きている者の為に使われるべきだと思うのである。
私は死の国に旅立つ時にはトランクス一枚でベニアの合板で作られた手製の安棺桶に入れられ火葬にしてもらい、森の樹木の下に埋めてもらえればいいと思っている。
私には身寄りが無い。
もし、君に見送ってもらえるならばこの世に未練など一厘も残さずに私は未知なる世界へ旅立つ事が出来ると思っている。
もし、その責務を君が担ってくれるのならば箪笥の金を君に進呈したいと思う。
もし、私が死んだらドクター リンクに電報を君宛に打ってもらおうと思っている。
親愛なるヴィンス君。
君にこの願いを聞き入れてもらえる事を切に願う。
1918年10月8日 君の親友 ジム マッケンナ」
私は二通目の手紙を受け取った時には、私の経営している会社は自転車操業状態で資金繰りに奔走していた。
本当は一日も早くマッケンナの元へ駆け付けたかったが、そういう訳にもいかなかった。
せめて手紙だけでもとも思ったが死の床に伏している彼に何て書けばよいものかと思案し筆を執る気にはなれなかった。
資金繰りも上手くいかずに私は焦っていた。
こうなれば、会社もなるようになる。
ドクター リンクからの電報もまだ届いていない。
私はマッケンナがまだ生存していてくれと願い死ぬ前に一目だけでもマッケンナに会っておきたいと思い10月31日のハロウィンに家を発ち夜行列車に揺られ二日かけてマッケンナのアパートに到着した。
マッケンナがどれほど衰弱しているのかとアパートの前に立って不安になった。
そして、正直に言おう。
私は事情を話せばマッケンナが貯めている金を生前に融通してくれるのではないかという淡い目論見もあった。
私は意を決して階段を昇ってマッケンナの部屋がある4階に向かった。
私は彼の部屋の前の扉に辿り着き、ただ呆然と立ち尽くした。
手紙には壁が薄いとは書いてあったが、まさかここまでとは思わなかった。
中から何かが軋むような音が聞こえ女の喘ぎ声も漏れていた。
それは卑猥で猥雑な喘ぎだった。
幻聴?
私は気が動転し頭がパニックに陥った。
一瞬、部屋を間違えたかとも錯覚したが部屋の番号を見ると確かに合っていた。
まだ、何かが規則的なリズムで軋む音と女の喘ぎ声が一定の音波で鼓膜に伝達されている。
私は勇気を振り絞って扉をノックした。
私のノックと同時に部屋の物音が止んだ。
静寂が辺りを包み誰も部屋から出て来る気配はなかった。
暫し待つが尚も部屋からは応答は無く物音一つしない。
5分ほど時間を置き再度ノックした。
すると、中からガサガサと物音がした。
足音がして扉がチェーンがかかった状態で4インチくらい開いた。
そこには、トランクス一枚のマッケンナがいた。
「ヴィ、ヴィンス君、な、何故ここに君が?私は君に手紙をハロウィンの前日に投函したのだが。ド、ドクター リンクからも電報は届いていない筈だが…」
彼は狼狽しながら言った。
私は尋ねた。
「き、君は手紙の内容から察するに死の床に伏していたのでは?」
部屋の奥がちらっと見えて乳房を露わにした女がベッドに座っていた。
「ヴィンス君、済まない。今、取り込み中なんだ。いや、正確に言えばお楽しみ中だ。済まないが、今日のところはお引き取り願えないか。詳しくは手紙に書いているのでそちらを読んでくれたまえ。ヴィンス君、君に会えて良かった」
そう言い残し彼は扉を閉めた。
私は茫然となり暫くその場に立ち尽くしていたら部屋の中からベッドが軋む音と先程の乳房を露わにしていた女の淫らで官能的な喘ぎ声がまた漏れてきた。
こうして、私のマッケンナ訪問は骨折り損の草臥れ儲けに終わり私は家路に就いた。
往復で四日間かけ夜行列車に揺られマッケンナの体調を気遣って神経をすり減らし私は資金繰りの事なども考え途方に暮れていた。
マッケンナ訪問中にポストに溜まった物を整理していたらあった。
マッケンナからの手紙が。
私は開封して読んだ。
「拝啓 親愛なるヴィンス君
今、こうやって君に手紙を出せる喜びを私は沁沁感じ入っている。
陳腐な言い方かも知れないが奇跡が起きたとでも言おうか。
10日ほど前から熱が下がり呼吸もほぼ感冒にかかる前の上体に戻った。
今では日常生活も以前のように行えるほどに回復して生の喜びを実感し噛み締めている。
部厚い肉を焼きグレイビーの掛かったマッシュポテトを貪るように喰らいこの世界の素晴らしさに浸っている。
あの大家の強欲女には支払いたくなかったが家を追い出されるので滞納していた家賃と飲食店などその他諸々のツケを払い箪笥の蓄えも僅かになってしまった。
私はこの生の喜びを噛み締め残された人生と僅かに残った金で何をするべきだろうかと自問自答した。
私が最近味わっていなかった己が此処に生きているという実感とは?
私はセックスをそう言えば此処15年ばかししていなかった。
私は娼婦を買った。
これだと思った。
汗、唾液、体液が交わり合いあの天にも駆け上がらんとするあの絶頂。
快く楽しむ人生。
それこそが快楽の追求でありセックスは私をこの上なく満たしてくれた。
私は肉欲に溺れ毎夜娼婦を買い欲望という名の列車に乗車してしまった。
この列車に終着駅はない。
ただひたすら前進あるのみ。
ヴィンス君、もう後には退(ひ)けんのだよ。
そういう事情で済まない、ヴィンス君。
箪笥の金の事は忘れてくれたまえ。
我が永遠の友、ヴィンス君、君といつの日か乱交パーティーを楽しめる日が訪れる事を切に願う。
1918年10月30日 君の親友 ジム マッケンナ」
私がマッケンナ訪問後に帰宅してから一週間後に私が切った小切手が不渡りを出し私の会社は倒産した。
私は残された借金返済の重責に悩み自殺も考えたが自己破産して心機一転やり直しの人生を選択し日雇い労働者の道を歩み道路工事の仕事に従事していた。
忘れもしない。
それは、11月の第四木曜日。
それは感謝祭の日だった。
一通の電報が私の家に届いた。
誰からの電報だろう?
心当たりはなかった。
送り主を見た。
ドクター リンクからの電報だった。
「マッケンナ氏、腹上死されたし。
死亡の際には貴殿に連絡されたしとの希望。
至急、連絡待つ」
マッケンナは肉欲という名の仕事に従事し労を惜しまず勤め上げ殉職した。
そして、彼は旅立った。
神はマッケンナの生命を感謝祭に収穫されたのだ。
私はドクター リンクに返信の電報は打たなかった。
彼の遺体がどうなったのかは私は知らない。
拝啓 親愛なるヴィンス君 Jack Torrance @John-D
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