ハープを弾くのは

プラのペンギン

ハープを弾くのは

 初めてハープという名前を聞いたとき、僕は管楽器の一種だと思った。だってフルートとかラッパとかそんな響きだったから。中学に入って初めてできた女友達が自己紹介でハープが得意だと言っていた。まだ彼女の演奏は聞いたことないけど、聞いてみたいって言ったら、家に招待されてそれで演奏してくれた。そのとき弾いてたのは膝に乗せられるくらいの大きさだったけど、お母さんの部屋には身長よりもおっきいのがあるらしい。一番低い音の弦は遠くて手が届かないそうだ。

 不思議な音色だった。ギターとかバイオリンとかそういう弦楽器と全然違った。温かみがあって、なんというか受け取りやすい音だった。彼女の演奏も決してすごく上手というわけじゃなかったけど、心地よかった。いくつか曲を奏でてくれたあと、僕にも触らせてくれた。ハープは木の部分も金属の部分もピカピカで高価そうだと思った。すると丁重に扱わなきゃいけない気がしてきて、遠慮したような持ち方をした。弦を弾いてみるとさっきまで聞いてた音とかけ離れた音が出てきた。彼女は「弾き方が違うよっ」と笑った。僕はポロロンと少し鳴らしたあと、結局すぐに返してしまった。そのあと、僕たちはハープとはあんまり関係ない話で盛り上がっていた。ふと時計を見ると4時50分。中学生にもなったのに門限は5時のまんま。学校の活動以外では門限が厳しい僕は慌てて帰りの支度をした。

「ハープ、すごくよかった。また聞きたい」

僕はそれだけ言って帰ろうとした。彼女も、

「またね」

と玄関まで送ってくれた。僕はうんと言って手を振りながら走って帰った。結局門限ギリギリで帰った僕は母に心配したと注意された。「もう中学生なんだからいいじゃん」と言うのはもう少し母の機嫌が良いときにすることにした。

 それからも僕は何度も家にお邪魔して彼女の演奏を聞いた。日に日に上手くなっていた。ハープはやはりお母さんに教えてもらっているらしい。プロの演奏家で楽団として国内外で演奏しているそう。家にいないことが多いのは少し寂しいと言ってた。一度だけ、お母さんの演奏を目の前で聞かせてもらったことがある。プロというだけあって、心に訴えかけてくるような、とても美しい音色だった。彼女もそれまで見たことのない穏やかな表情で聞いていた。そのあと、お母さんからの提案で彼女との二重奏を聞いた。違う音色の二つの旋律は仲良く追いかけっこをするように部屋中を走った。

 いつのまにか門限の5時はとっくに過ぎていた。防音室にいたので外のチャイムも聞こえなかったのだ。僕は慌てて片付けを始めたら、彼女のお母さんが親に電話してくれると言う。流石に急にお泊りは難しいが、もう遅いのでご飯を頂いたあとに迎えに来てくれるらしい。怒られなくなったというだけでも感謝が絶えないのに、ごちそうにもなるので嬉しくて仕方なかった。なにせ、プロの演奏家の家だ。ご飯もきっと豪華なんだろうと浅はかにも思ったからだ。期待に反して、夕飯は至って普通なものだった。ご飯と大根のお味噌汁、小皿にほうれん草のおひたしとそれから唐揚げ。うちで出てもおかしくない献立だった。それでも素材がいいのか我が家のご飯よりも美味しく感じた。ご飯中、彼女はお母さん自慢をずっとしていた。僕は唐揚げに夢中になりながらも、話に驚いてはすごいすごいっとうなずいた。夕食を終え彼女とテレビを見ているとインターホンが鳴った。母が迎えに来たようだ。お皿を洗っていた彼女のお母さんは手の泡を落とし、優しく手を拭いてから「はーい」と玄関に歩いていった。僕もささっと準備を済ませた。玄関では母が「ほんとすみません、ありがとうございます」とお辞儀しながら繰り返していた。僕を見つけるとほらっと手招きして怖い顔で睨みつけた。すると彼女のお母さんは「私が集中しすぎてしまったのも原因ですから」と僕を怒らないよう促してくれた。

 別れ際、彼女はいつものように「またねっ」と手を振っていた。いつもより笑顔だったのはきっとお母さんと演奏できたからだろう。帰りの車の中でそんなことを思っていたら母がちょっかいをかけてきた。

「あの娘のこと好きなんでしょ」

「はっ、そんなんじゃないし」

反射的に言ってしまったが、正直ちょっと好き。ちょっとだし。その後もたまにいじられるけど面倒くさい母だと思う。

 2年生になってしばらくしてから、二人で帰ってるときにこんなことを言われた。

「今日、告白されちゃった」

「え、誰に」

突然だったのでびっくりした。

「あの、2組の野球部じゃないのに坊主の」

「田中?」

「そう、その人」

田中、根は真面目なお調子者のあいつが告白するとは。

「へ、へー。……それで返事したの?」

「断ったよ。好きな人いるからって」

「そっか。ふーん」

帰り道はいつもと同じなのになんだか気まずい雰囲気になっていた。

「……なんでその話を僕にするのさ」

多分少し卑屈になっていた。なんだか不思議な気持ちだった。好きな人がいるって言葉が突っかかっていたんだ。

「……そんなことより、今日はうちくる?新しい曲弾けるようになったの」

少し考えるふりをしてから答えた。

「今日はいいや。宿題もあるし」

この誘いを断るべきじゃなかったかもしれないと思うときがあった。何度も。でも過ぎたことはどうにもできない。時間は不可逆なものだ。

 翌日、朝のニュースで彼女のお母さんの死亡を知った。海外での演奏中照明が落下して当たりどころが悪かったらしい。ショックのあまり朝食が喉を通らなかった。母も衝撃といった顔をして、手が止まっていた。僕や彼女にとってものすごく大きな出来事であるにも関わらず、他のニュースと同じように流れていく。その残酷さにメディアを呪った。そんなことしてもどうしようもないのはわかっていた。僕はその日日直の日よりも早く家を出て、彼女の家に走った。留守だった。それもそうかと思った。海外での事故だ。お父さんが彼女を連れて海外にまで行ってもおかしくない。僕はそのまま学校に向かった。運動部が朝練している横を抜けて教室に行くと誰も居なくて、電気もついていなかった。静かな教室に突っ伏してただただ時間がすぎるのを待っていた。ホームルームで先生が彼女の欠席を伝えた。「おうちの事情」だと。彼女の仲のいい友達はお母さんのことをわかっていたようだが、他は知らない様子だった。その友達もどこか他人事のようだった。

 それから彼女は不登校になった。僕は特に仲のいい人判定をされて、プリントを届けるのを先生に任された。毎日学級だよりとかお知らせの手紙を二人分持たされた。彼女のお父さんにも何度か会った。とても人当たりが良くて、僕のことも彼女から聞いていたらしい。普通のサラリーマンで帰りが夜遅くなることもあるらしく最近はお手伝いさんを雇っていると言っていた。たまにでいいから娘と会ってほしいと言われ、家の合鍵を渡されたとき僕はことの重大さを理解せざるを得なかった。娘の友達の男の子に家の合鍵を渡すのは普通じゃない。それともそれだけ信頼されていたのだろうか。それからたまに彼女の部屋の前まで行った。話した。

 彼女は思ったよりも元気だった。情緒不安定というわけでもなかった。心に傷を抱えているのは確かだが前を向いていた。朝のニュースを見てショックを受けたこと、朝早く家に来たことも伝えた。彼女は「うん、うん、ありがとう」とちゃんと話を聞いてくれていた。

 あるとき、彼女は部屋の扉を開けてくれた。掃除などはしているらしく、前とあまり様子は変わっていなかった。髪が随分伸びていることに気づいて、髪が伸びたねと言うと笑って「今ならどんな髪型もできちゃうかも」と言った。部屋の中で彼女の小さなハープだけがほこりを被っていたことは気づいてないふりをした。それがいいと思ったから。それから色んな話をした。お母さんの話も、お父さんの話も、学校の話も、テレビの話も。彼女は学校には来れないものの、以前の表情を取り戻していた。そしてある日部屋を訪れるとハープのほこりが落ちていることに気づいた。だから僕は言った。

「また、君のハープが聞きたいな」

彼女はハープを見つめて言った。

「この前久々に触ったけど、触っただけだったの。できるかな」

僕がうなずくと、彼女は静かにハープを膝において、指を弦にかけた。

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