れとろいめらい 赤

藍元丸五

第1話 としょかん

ここに座るといつも緊張する。

 もう何年もこんな仕事をしているのにさっぱり慣れない。

 いや違うか…。業務内容というか、手順というのか、そういうものに関しては習熟しているんだけど…。このなんというかシフトの順番が変わってすぐというのはタイミング的に雰囲気が如何なものかと思うしだいで…。

「こんにちは! ご返却ですか?」

 条件反射で声のトーンが高くなる。一度やりすぎて笑われたことがあるけど、これはもう直らない。

 お客さんが手に本を持ってきているから、返却を尋ねることからルーチンが始まる。手順通りに進む。

 返却だったらそのまま本に貼ってある図書館のバーコードを読み取り機でなぞって返却作業を完了する。本はこのまま預かって本の背とかに入れている磁気テープの属性を変更させる処理をしてから、たぶんあとでこの次のローテーションでボクが排架する。ことになる。たぶん。

 貸し出しだった場合は図書カードを預かって機械で図書カードのバーコードを読み取ってから、返却作業と同じように本の表紙に付いている図書館ラベルについているバーコードを機械でなぞって貸し出し作業をする。返却日の印刷されたしおりを挟んで口頭でその日を告げながら、PCのキーボード横にある銀色の板状の機械の上に本の背を当てて磁気テープの属性を替えてから、本をお渡しする。「ありがとうございました」と明るめの声を添えて。この磁気テープの属性を変更する作業を忘れると大変なことになる。この図書館の出入り口にいかめしく鎮座するBDSなる白い大きな門のような機械が反応して大きな音がする。するとまあだいたいの人はムッとするし、運が悪いと怒りだしたりして大変な目に合う。

 この貸し出し作業と平行して予約本の貸し出し作業というのがある場合もあってだな…。

「先パイ、まだ続ける気でいますか?」

 こう隣に座る大学生の女子がジト目で指摘してくる。

 午前のローテーションは終盤になっていて、さっき朝一のカウンターで返却されてきた本を排架し終わったばかりだ。

 今はバックヤードに入って隅のテーブルに座って本の補修をちびちびしている。それも後少しの間だけで、お昼の時間になったらカウンターに出ることになる。それまでの間の休憩のようなそうでないような時間帯。

 ほとんどいつも午後出のバイトの大学生とここで話すことになる。午後出もお昼の時間帯のカウンター要員だ。

「続けないよ」

「そんな業務の手順なんて頭に入ってますよ。いまさらですね」

 新人じゃないですから、なんて強調しながらアンダーリムのメガネをツイと直した。

 いつもきれいに櫛を入れてきつく結い上げたポニーテールで、服装から話し方から雰囲気まで真面目な感じだ。いや、図書館をバイト先に選ぶのだから、感じだけではなくて心底真面目であるのだろう。

「いや、まあ、なんだよね。返却とか貸し出しとか、予約本の作業だって入れたっていいけど、五人も十人も立て続けにやると…」

「やると…?」

「やると違和感ってヤツがなくなるじゃない?」

「違和感ってあれですか。いつになっても緊張しちゃうっていう、最初の発言」

「いや、まあ、そうなんだけど、緊張というのかなんというのか、違和感?」

「さっき緊張って言ったじゃないですか?」

 ちょっと口を尖らせた。まあ、たぶん本気ではない。目元が三日月を逆さにしたような形にして笑っている。

「緊張って言うとさ、なんか違うような感じがするんだよね。この仕事でそこまで緊張するかなあ、とか」

「どんな時でも緊張する時はありますよ」

「いや、ねえ、君の緊張とボクの緊張は次元が違うというか、なんか君に緊張とか言われると、そこは違うような気がしてならないというか…」

「はいはい。おいくつになっても緊張するんですよね」

 ニコッと言うよりもニッという感じで笑って大学生女子は立ち上がった。

 おっといけない。その動作でもうカウンターを代わる時間なのに気がついた。

「緊張しちゃったらダメですよ、ボクちゃん」

 馬鹿にしてからに、と言い返したけど、相手が本気で馬鹿にしているわけではないのは声のトーンでわかっている。

 ただ笑った時に口元で光る歯列矯正の金具が鈍く光って、なんとなくボクの未来を暗示しているように見えた。

 まさか、ね。

 ここに座るといつも緊張する。やっぱり。

 カウンターは本当にカウンターっぽい造りになっている。長いL字型の白を基調にしたテーブルをPCとそのモニターで区切りを作っている。L字の長い方には四席、端はレファレンスの席になっていて必ず正規の職員、まあ本物の司書さんが座っている。

 ついこの前まではL字の短い方の特別席みたいになっているところがレファレンス席だったんだけど、出入口から物理的に近くてゲートが見やすい席に移した。

 このカウンターは出入口に正対する位置にある。とは言ってもフロアの端から端で距離はあるけれど。よく見たら完全な正対じゃない。少し斜めになっている。だからか…。L字の長い方の三席の内のレファレンス席から遠い端に座っているはずなのに、何故かお客さんが多いような気がする。それもそのはずで微妙に出入口から正面を向いているじゃないか。何年もここに勤めているっていうのに、いまさらながらに気がついた。

 隣の女子にこの大発見を休憩時間にでも伝えてみるか。いや、知ってましたよ。とか、しれっと言われるかも。

 この時間はカウンターは少し暇なのかもしれない。お客さんがどっと来れば緊張も解けるというものなのに。

 しかしこのカウンターはどっしりしていて机としてはいいものだな。白い軍服を着た人みたいに指で弾きそうになる。

 いや、いつもそう思ってもやらないのだから、たぶん思っているだけで一生やらないものなのかもしれない。

「こんにちは! ご返却ですか?」

 急に目の前に人影が入ってきて、ボクのモードが業務用に切り替わった。波紋でも出しそうな勢いなのを抑えて、丁寧にお辞儀をした。

 お客さんは年配のご婦人で杖をつきながらそれでも上品な物腰で抱えていた二冊の本を静かにカウンターに置いた。そして腕にかけていた手提げから図書カードを取り出す。

「貸し出しをお願いします」

 ボクもそれを恭しく受け取り、丁寧に、そして自分のもてる限りの優雅な動作を心掛けて貸し出し作業を行った。

「いつもありがとうね。あなたみたいに若いお人にはわからないかもしれないけどね、私ね、本がないと生きていけないのよ」

 ! ハッとした。

 いつも機械的に業務をこなしているからなんとも思ってはいないんだけれど、高齢な人からはよくありがとうと言われる。例え仕事であっても何かをしてもらったらありがとうと添えるのが常識だと、この仕事をしてから思うようになった。

 でも今はそれじゃない。

 ボクにも切実な言葉じゃないのか。

「はい、自分もそうです。本がないとダメです」

「そうなの。そうよね」

 ご婦人はボクの他愛のない言葉にニコニコとして作業の終わった本を受け取り出入口に向かっていった。

 その杖をつきながら歩く後ろ姿を見送りながら、さっきのボクの言葉がおべっかみたいなものに取られていないか少し心配した。

 本という物体によって物理的にもそして精神的にも糊口をしのいでいる身としては、とっても切実な思いだと実感している。たぶんボクの人間性の為に真摯に受け止められてないかもしれないけど…。

「はい、貸し出しね。にいちゃん」

 急に目の前に本が数冊積まれた。

 顔を上げるとこちらも年配の男性がニヤッと笑っていた。なかなか恰幅がいい人で声もだみ声でドスが利いている。

「こんにちは。図書カードをお願いします」

「あいよ」

 ポケットから無造作に出した図書カードをひょいと渡された。こういうぶっきらぼうな人も割といるからカードを取り落とすことはない。新人時代にヘマをやりつくしたおかげだ。

 カードを機械に読み込ませてカードをお客さんに返却してから本の貸し出し作業をする。なんとなく厳めしい感じの人だから気合いを入れてやる。

「にいちゃん、手際がいいな」

「ありがとうございます」

「もう少し愛想がいいともっといいんだけどな」

「はい、もっと勉強いたします」

 本を揃えて積み上げてから上の一冊の表紙を開いて返却日が印刷された栞を長めに外に出るように入れた。こうすると返却日が目につくようになる。

「にいちゃん、おれはもうそんなに長くはねえぜ」

 言うが早いかお客さんは長く出していた栞をほとんど本の中に入れてしまった。

「こんな感じだあ」

 そして自分の頭を指差してから撫で回した。確かにお客さんの頭髪は見事になくてツルツルだ。光っている。

 ただ頭の形は良いのか貫禄になっているように見えた。

 ちょっと一瞬だけ考えた。

 相手は虚を突かれたと思ってニンマリしている。

 まあ、こうまで言われると仕方ないか…。

「ボクも同じですよ。頭、薄くて…」

 タハハ…という笑いを付けてお客さんに本を手渡した。

 今度はお客さんの方が虚を突かれた感じになった。

「ありがとうございました」

「いや、なに、にいちゃんの方が若いからそんなでもないよ」

 さすがに悪いと思ったのかしどろもどろにフォローをしてくれた。

 まあ、もうこの頭にも慣れたしね。

 そんなに若くないのも自覚している…。

 いや違うか…。さっきまで完璧に忘れていて、思い出してしまったんだな。

 あーあ、もう中年のおじさんになっちゃったんだなあ。

 仕事してると若いように感じるんだけどな。

 片手を上げてお客さんはカウンターからよろよろと離れていく。そんなお客さんの姿を見送る。言葉は闊達だけれども、やっぱり年配なのがわかる。

 あんな風には言ってたけど、あのお客さんも自身が感じている年齢は実際より若く思っているのかもしれない。

 割とゆっくりと進んでいくお客さんを見送っていると何か心に引っかかるものがあって仕方ない感じになった。

 それほどまでにこの地肌の見えかかった頭髪を気にしているのか、みみっちいヤツだ、などと自分で自分のことを心の中で罵っていたら、大事なことを思い出した。

「あ!」

 言うが早いか、自分でも驚くほどのスピードで立ち上がった。PCの脇に置いてある銀色の板状の小型の機器をわし掴むと同時にカウンターの後ろを小走りに走って出入口に向かった。

 ビューンなんて効果音が入ってもいいくらいだ。

 本に付いている磁気テープの属性を貸し出し状態にするのを忘れてしまっていた。良いタイミング、いや悪い時に話しかけられたからだな。

 気の利いたことを言おうなんてして混ぜっ返さなきゃ良かったよ。

 ゲート手前のすんでのところでお客さんを呼び止めて、もうペコペコ何回も頭を下げてその場で本の磁気テープ作業を行った。BDSが鳴ってからじゃなくて良かった。

 やっとの思いでカウンターに帰りつくと正職員さんにチクリと怒られてしまった。

 席に着くなり隣の大学生女子に言われてしまった。

「まだまだお若いですよ」

 気を使ってくれているのはわかるけど、それはそれで非常に嬉しかった。

 まったく歳は取りたくはないね。

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