三十六 信頼
ようやく事件に関連した対応が落ち着いて、いつも通りの日常が戻る。
画室高梨の修繕は一番大がかりな部分が終わり、江角先生に預けた絵は、英介さんの自室に戻ってきた。
壁に並べてかけられた二つの絵を眺めているところに、英介さんが入ってきた。
「この絵は僕を描いたって、本当ですか」
愛子ちゃんと和美に言われたことを思い出しながら問うと、英介さんはあっさり頷いた。
「君になって世界を見たら、どういう感じなのかと――想像して描いた。これは君に会ってから、初めて描いた絵だ」
『
背を向けて立つ少年を中心に、空中を色のついた細かい粒子が浮遊している。
僕がこの絵を好きなのは、確かに自分の見えている世界に近いからだが、粒子の波に乗って前方に世界が拡がっていくような構図が、気に入ったからだ。
「空気と光の屈折で見える景色とは違う感じが、近いです」
「粒が浮いて舞っているような感じかと想像したが、君はそれに加えて、実際の生き物や食べ物なんかも見えるんだろ?」
出会ってすぐ描いたのなら、まだ僕の見えているもののことは、自分でも上手く説明できていない頃だ。英介さんが僕の描いた絵からそこまで読み取って想像したとしたら、感性が近いと言われるのも納得する。
「生き物はそうですが、それ以外のものは、見えるというか……情報として頭に浮かんでくるような感じですね」
「そうなんだろうね。君に会うずっと前に、父が、君と
不思議な相槌から急に名前の話になり、きょとんとする。
「名前?ああ、名付けの話ですか」
僕の名前はお祖父さまが付けた。書道家なので命名書を頼まれることは多いが、命名自体の相談もよく受けている。文字の意味についてもよく話してくれる。
「坂上家は神道だよね。まあ、散々聞いて知っていると思うけど――標という字には、
「ええ」
僕の命名はもう、生まれる前に決めていたらしい。男女ともに使える名で、神道に関係のある文字から選んだとのことだ。
「君の啓という字も近い意味だが、祈りや、神様からの啓示とか、未知のものを明らかにするという意味があるって。父が、書道家らしい逸話だと感心していた。それに、僕が君と出会って感じたこととか、今回の事件との関わりも、名前の意味に凄く合っていたなって思う」
確かに、猫からのお告げみたいなもので、未知のものに触れ、導かれた。僕が凄いというより、猫とお祖父さまが凄いのではないかと思うが。
「お祖父さまは、信心深いというより、世界には自分の知らない仕組みの方が多いだろうから、何があっても不思議ではない。という心構えの人なんです。僕も小さい頃からその話を聞いているから、無意識にそういう人間になったのかもしれないし、本当のところはわかりませんけど」
両親は神仏の類を信じない人間なので、偶然だと笑われるだろう。
「それも中々、凄いことだよね。僕と久子も一時期、標文先生に書道を習っていたけど、再開してもらおうかな。絵の題を付ける時に、その頃習っていたことが結構役に立つんだ。君を描くと決めた時も、啓という字に関係する言葉を、辞書を引いて考えて、啓示の示を連作の題に据えた」
「そうだったんですね」
「君に会った頃は僕も充くんと同じで、自分らしい作品とはどんなものなのか、悩んでいたんだ。この絵を描いて、自分だけの視点を改めて意識できるようになって、連作以外のものも自分らしく描けるようになったと思う。本当に、君との出会いは僕の人生においても、大きな意味があるんだ」
「北原さんの諭も、導く意味の文字ですよね。介は、守るとか、助けるとか、繋ぐという意味だし――英介さんの英も、美しく秀でた人という意味だし、ぴったりだと思います」
うっかり「英介さん」と呼んでしまったが、彼は特に意に介さず、僕の描いた絵を眺めている。
「君の絵が僕を描いたんなら、お互いを描いたかたちになるな」
「英介さんは僕の絵より、もっと……」
「うん?」
また呼んでしまって、目が合った。
「優しくて、キラキラして見えます」
珍しくわかりやすく照れたように、英介さんは相好を崩した。
今までもここではほとんど眼帯無しでいたのに、どんどん知らない色が二人の間に溢れて、緩やかにきらめいている。
街で恋人同士のふたりを眺めても、同じような色が見えるのかもしれないが、自分に向けられた気持ちはおそらく、特別に感じるのだろう。
「君の前だと優しくなれるし、いい人間でいられる」
「それは、僕もです」
「その内、和美くんと君みたいな感じになれたらいいんだけどな。僕の方が付き合いは長いのに」
「僕も、江角先生といる時みたいになってほしいです」
お互いまだ、好かれたくて、嫌われたくなくて、緊張している部分がある。
不機嫌な英介さんも、弱った英介さんも、たくさん見たい。
「今みたいに名前で呼んでくれるのは嬉しいな。照れるけど」
やっぱり、気付かれていた。
「二人の時だけにします。照れるので」
英介さんは、ごく自然な動作で僕の肩に手を回し、優しく引き寄せた。
「君の絵と一緒に飾れたらいいなと思ってた」
「僕が買う約束ですよ」
見上げた顔が近くてどきりとするが、もう慌てて目をそらさなくてもいいのだと思い直し、そのまま見つめる。
絵について教えてくれる時は厳しく冷静な顔付きでいるが、少しおどけた雰囲気の笑みを浮かべている。
「買うのは止めないけど、同じ家に住めば、そうできるのになぁ、とか」
「……は」
僕が慌てるのをわざと面白がるように、英介さんが顔を覗き込んでくる。
「僕がおまけで付かない方がいい?結構、役に立つと思うんだけど」
「気が早いと思います」
困って真面目に答えたら、英介さんはまた笑って、僕を正面からゆっくり抱きしめた。
「ごめん。困らせたいわけじゃなくて――お互いの気持ちが恋じゃなくてもいいと思ってたから――昔から単純に、君と会うのが嬉しくて、できるだけ一緒に過ごせたらいいなと思ってたんだ。弟子として迎えたのは、お互いいい影響があるって思ったからで、下心は無いと信じて欲しいし、その件に関しては小出くんと君の差はないけど」
「恋じゃない方がいいって意味じゃ、ないですよね」
声が変に震えてしまったのに気付かれて、英介さんはまた、僕をじっと見つめた。
「気持ちを知ってしまったからには、恋は育てて実らせたいけど、同時進行で信頼関係も築けたら、考えて欲しいなと思う」
「僕がもし江角先生だったら、今すぐ結婚してもいいくらいには好きですけど、自分が子どもっぽいのが悔しいです」
英介さんには感情に任せて話した方が、僕の不安を解消する答えがもらえるとわかってきた。もう、不安や本音は隠さない。
「君が納得できないことはしないと約束する。逆に、今だけのことで焦ったり気にしすぎたりして、君といられなくなるのは嫌だな。僕の他にもっと好きな人ができた時以外は」
「他のどんな気持ちより、英介さんを好きな気持ちが一番、確かです」
「そうだな。僕もだ」
「いつまで経っても追いつける気がしないけど……」
「年の差は縮まらないし、君は当分かわいらしいだろうから難しいけど、僕が大人に見えるのは、君を支えられるような大人になりたくて、頑張ったからだと思う。僕だって二十歳の頃は、君みたいな感じだったろ?」
立場や関係のせいで恋だと錯覚しているのではないかという自問自答は、もう、何年も前にひと通りし終わっている。英介さんもそうだろう。
最初から恋として始まっていたら逆に、才能や立場に疑問を持ってしまったと思うから、僕の人生を、自分の恋心より大事にしてくれていることはよくわかる。
「確かに今とは違うけど、僕よりもっと、しっかりしてましたよ」
「じゃあそれは、生まれ持った性格と個性だ」
「まだ背は伸びてるし、そのうち、無流さんみたいに逞しくなっちゃうかもしれないですしね」
僕が目を細めてそう言うと、英介さんも片眉を上げ、わざと悩んでいるような表情を作る。
「標文先生は背が高いから、有り得るかもね。でも、無流さんみたいになりたいなら、かなり鍛えないと」
「そうなっても、気が変わったりしません?」
「しないと思うけど……そうなるまで待とうか?」
形のいい大きな手が頬に触れ、穏やかで優しい眼差しに見惚れている内に、ふわりと唇を奪われた。
僕の表情を確かめるようにしてから、また、深く味わうように口付けられ、ゆっくり息を吐きながら、大事そうに抱きしめられた。
僕からも手を伸ばし、ずっと触れたかった背に触れ、首元に頭を預ける。
身体は暖炉の火にあたるようにお互いの温もりが混ざり、肩越しに、自分の不安や迷いの色が眩しく溶けていくのが見える。
「和美に、僕が無流さんだったら英介さんをかわいがれるのにって言ったら、かわいい内は素直にかわいがられておけって言われました」
「ははは、いい友達だな、本当に」
笑い声が身体を伝ってくるのを愛おしく思いながら、僕は目を閉じて、その優しさと安らぎに身を預けた。
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