二十一 心の色
雨音で目覚めるも、目を閉じたまま姿勢を変える。
わずかに開いた布団の隙間から涼気が忍び込んでくる。仕方なくゆっくり目を開けると、少し離れたところからそっと様子をうかがう人影が見えた。
「おはよう?」
聞き慣れた声に、慌てて起き上がる。
「おはようございます――あ」
何か落としたと思い込み、反射的に動いたら、ベッドの脇の台に手がぶつかった。
「啓!」
身体を軽く支えられるが、また名前を呼ばれたことと、寝起きの自分の様子が把握できないことに動揺して、固まってしまう。
「……すみません」
落ち着いたところでカーテンが開けられた。外は雨模様だ。
英介さんは着替えを済ませているのに、自分はまた汗をかいていて、髪も服もよれよれしている。
「大丈夫?」
英介さんがまた上着を肩にかけてくれて、座って水の入ったコップを手渡してくれる。
昨夜より随分具合はいいようだったが、その分、気恥ずかしい。
どうせ恥ずかしいならと開き直って、コップを置き、なんとなく布団に添えられている英介さんの手を見ながら、口を開く。
「あの……今、名前を――」
ちらりと目を合わせたら、英介さんは気まずそうな顔で、目を伏せた。
「すまない、つい」
熱を出した時、同じように呼んだのも、慌てて咄嗟に声をかけたからだろうか。
もしかしたら、ここからの帰り道で襲われたことに責任を感じて、啓が思うよりずっと心配してくれたのかもしれない。
特別な意味は無いという前提でなら、気まずくならずに話せると思い直す。
「そっか、事件のこと、心配してくれてたんですよね……僕がいつも、危なっかしいから」
そう言ってこちらも目を伏せると、置かれていた英介さんの右手が、布団をぎゅっと握りこんだ。
「あぁ――心配した。君が思うよりずっとだ。君を助けに行けなかったし、何もできなかったのが悔しくて。本当に、無事で良かった。昨日は君が訪ねて来てくれたから、安心して気が緩んだ。でも今度は、熱が」
左の手のひらが啓の首元にそっとのび、熱を確認する。
「熱は下がったみたいです。おかげさまで」
その手がそのまま肩にとどまったのを不思議に思い、目を合わせると、いつになく真剣な眼差しに捕まった。
僕が戸惑ったのを見ると視線は揺れ、また目を伏せられる。
いつもの英介さんとは違う色と光が、迷いを表すように揺らいでいる。
でも、凄く綺麗だ。
「啓。僕はずっと、自分には情が足りないと思っていた。美しいものや、好きなものははっきりしているけど、愛しいものに我を忘れるくらい夢中になったことがなかった。そうなりたいと望んでも、自分ではどうすることもできなくて、だけど」
「……はい」
戸惑いながらも、緊張感がないのを見て取ったのか、英介はゆっくりすくいあげるように啓の片手を取り、優しく両手で包んだ。
「君の絵を見て、君に会いたいと思った。それまでの人生で一番、自分の強い気持ちを感じた。それから君に会って、君を知っていくうちに――初めて心から、愛おしいと思えたんだ」
予期せぬ告白と、そのまっすぐな眼差しを受け止めるも、実感がわかずにいる。
「僕を……?それとも、絵の――」
「君が好きだ。出会ってから、ずっと」
ようやく状況を理解した身体が、握られた手から熱くなっていく。
初めて英介さんに会ったのは、この画室だ。英介さんは大学に入ったばかりで、父親の手伝いをしていた。僕はお祖父さまのすすめで絵を習わせてもらえることになったが、人見知りだったので、ひどく緊張していた。
事前にお祖父さまが渡していた水彩画について、親子ともに色づかいをほめてくれたのを覚えている。
美術の学校に行きたいと希望するようになった十六歳からは、英介さんにデッサンや油彩画を教えてもらい、無事入学することができた。
「僕も――眼帯を外して、初めて先生を見た時、さっき先生が言った通りの気持ちになりました。先生が選んでくれたあの絵は、その時見えた色を描きたくて、必死に描いた」
あの時、まるで、日が暮れる少し前、空一面の雲が虹色に輝いているような色彩が押し寄せてきて、僕たち二人を包んだ。
霧や粉のような粒子がキラキラとおどり、彼が笑う度に輝いていたのを、なんとか絵にしたいと思った。
「啓、僕の想いが迷惑なら――」
「そんなわけない。僕だって好きです。僕から、言おうと思ったのに」
相手の魂の色や光が、自分の気持ちと共鳴することで、より鮮やかに輝くのであれば、美しくて好ましいと思っていたのも当然だろう。
相手が自分をどう思っているのかはこの景色からはわからないと思っていたが、和美と予想していた通り、自分の気持ちも混ざってしまっていたからだ。
今、英介さんの気持ちがわかったことで、やっと答えが出た。
何より今、僕の答えを聞いた彼と僕を包むこの部屋の空気が、あの時と同じ色にきらめき始めている。
せっかくの景色がぼやけて、また涙に気付く。
「ずるいです、こんな時に言わなくたって」
鼻をすすりながら抗議すると、英介さんは僕の肩を抱いて、引き寄せた。
顔を覗き込むようにして、涙を拭われる。
「ごめん。頭では、君が独立するまで待とうと思っていたが……限界だった。もしこの気持ちが一方通行なら、別れなければいけなくなると思うと、本当に辛くて」
「あなたにも今――僕に見えてる景色が、見えたらいいのに」
「夢に見たような、あの色?」
英介さんが微笑んだところで、電話が鳴った。
「泣かせてしまってごめん。電話が済んだら、朝ごはんを持ってくるよ」
扉がしまり、景色は落ち着くが、部屋はほんのり明るい感じがする。まだ心臓が落ち着かない。
鼻をかんで着替えていると、思ったより早く、扉が叩かれた。
「すみません、まだ着替えが」
「そのままで聞いてくれ」
「?――はい」
「警察からの電話だった。僕たちに聞きたいことがあるそうだ。これから来る」
「……先生にも、ですか?」
「小出くんが行方不明だ」
雨が窓を叩く音が急に強まって聞こえ、僕の脳裏には、昨日見た夢の映像が浮かんだ。
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