十三 匂い

 和美は朝から、顔に傷があることを冷やかされていたが、学内に犯人がいないとも限らない。詳細を語らずにでたらめを言っていた。

 報道は個人名を伏せたもので、まだ切り取り魔とは断定できないとして、僕と和美が襲われたことはまだ広まっていない。

 昼間の犯行がまだ無いことから、僕個人を警護するという申し出も、自宅でしばらく保護するという申し出も断った。

 和美が名前を呼んだことが裏目に出ていないといいが、あの道で狙われていたとしても、僕の身元が犯人に把握されているかどうかはまだわからない。

「……あの犯人、どうしてわざわざ目立つ部分だけ、隠さなかったんだろう」

 画材を片付けている和美にそう呟くと、和美は頷いた。

「確かに、俺なら顔を全部隠すな」

「だろ?」

「服ももっと動きやすく――ああ、でも、人を運ぶなら、隠すのに大きい布があった方がいいのか。リヤカーで運ぶにしても、そこまでは抱きかかえるとかしないと駄目だもんな。牙を隠さないのは、自分が特別だと思ってて、見せつけたいとか?」

「だから、特別な人を狙う?」

 何故、切り取るのか。まだそれもわかっていない。

「さあな。それだけじゃ何も。想像でしかない」

「あれは逆に変装だったりして。本当は背も低くて、歯もとがってない」

「それだと、また犯人を探しにくくなるな。兄貴が北原画廊に行ってたことを考えると、黒ずくめで、顔の一部を隠した人物なのは結構前から言われてたみたいだ」

「北原さん?あぁ、確かに……彼は僕の右目に興味があったみたいだし、条件は合うけど」

 君の目が欲しい。

 そう言われた。

 でもあれは、生まれつきそうだったらという意味だろう。

「――そうなのか?」

「それを言ったら、英介さんだって怪しいし……北原さんは違うと思う。あの人、凄くいい匂いがするだろ。お前と、無流さんもそうだけど」

「匂い?あぁ、線香か」

 自分の服を嗅いで、和美は少し嫌そうな顔をした。

「和美たちのは寺の線香の匂いで、北原さんのは似てるけど更にいい匂いだ。香り自体はさりげないけど、完全にあの匂いを消すのは難しいんじゃないかな。画廊は作品があるから香は焚かないだろうし、洋装の時も同じ匂いがした。あれは多分、住居部分で凄くいい線香かお香を焚いてるんだ」

 講義終了の鐘が鳴り、和美は荷物を手に取り、席を立った。

「啓、次もこの教室だっけ」

「うん」

「終わったら正面玄関で待ってる」

「わかった」

 他の現場と同様、犯行現場は警備され、校門近くには私服警官が配置されている。

 大きいコンクールの締切が近いため、犯人を警戒して閉じ籠っているわけにもいかない。

 できるだけ明るい内に人通りの多い道を通り、遅くなったら画室高梨に泊まるよう言われた。

 眼帯を着け、次の課題に集中する。

「あっ」

 後ろでバサバサと何かが落ちる音がして振り向くと、床に本が散らばっていた。

「大丈夫ですか?拾います」

 本を拾って、持ち主と思われる書生風の学生に手渡す。

「はぁ、ありがとう――坂上君」

「え?」

 眼鏡をかけた男の顔をよく見たが、知らない顔だ。

 背が高く、髪は少し長い。清潔感はあるが、顔色はあまり良くない。

「小出君や北原さんからよく聞いてるよ。布袋充ほていみつるです」

「あ、もしかして彫刻科の……」

 確か小出と仲が良かったはずだ。

「綺麗な瞳なのに、隠してしまうのだね。その絵も綺麗だ。君の絵はとても幻想的でいて、しっかり写実的だ」

「ありがとうございます。写実に関しては、小出の方が」

 小出の絵は実物に忠実で、緻密で立体的だ。英介さんの作風とも近く、群を抜いて上手いが、その印象は小出本人と相違ない。

 少し恐くて不安になる。でも、それが魅力だ。

「彼は写実には飽きたとか。神話の世界に凝っているようだね。僕も随分と影響されている。小出くんはまだかな?」

「今日は見ていません」

「昨夜も約束していたが、会えなくてね。具合でも悪いのかな」

 どうやら本当に仲がいいようだ。小出はあまり欠席する印象はないが、確かに今日は見かけていない。

「親しいんですね」

「とてもいい子だよ」

「ええ。知ってます。でも僕らには中々打ち解けてくれなくて」

「彼が無表情なのは、口を大きく開くのが嫌だからだとか――」

「え?」

「……今日も会えないかもな。では、僕はこれで。見かけたら僕が探していたと伝えてもらえるかな」

「わかりました」

 布袋を見送りながら、犯人の顔を思い出そうとしたが、うまく行かなかった。

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