第15穴 転・転・転職
それから数年の間は、彩也子が求めていたような平穏な生活ができていた。子どもたちも対等に話ができる年頃になり、彩也子の心を軽くしてくれた。
長女が大学に入って一人暮らしを始め、次女が高校に入学し、教育費がピークに向っている時期だった。まもなく勤続10年になろうかという時に、隣県のМ市の営業所に転勤が決まった。高校に上がったばかりの次女の学校を変えることもできないので、亮一は単身赴任をするしかなかった。
「いくら会社が負担してくれる部分があっても、一人暮らしと単身赴任とこの家と、なんてやっていけるのかな」
彩也子は経済的な不安を口にしたが、どうすることもできなかった。
来月から赴任するとなって、少しずつ準備を始めていた。ある日、仕事から帰るなり、亮一が荒れた口調で言った。
「ったく、ふざけんなだよ!会社の都合で急に転勤させられるのに、家族と一緒じゃないと引っ越し代も家賃もほぼ自腹だとか言いやがって!」
「そんなの無理だよ。それはおかしいでしょ」彩也子は驚いて言った。
「うちの会社、転勤させて悪い条件出して辞めさせるみたいなパターンがあるらしいんだ」
「何それ?そんなの、パワハラじゃない!」
「去年うちの会社辞めた保坂さんて人から、今日急に連絡もらってさ。たまたま保坂さんの今の仕事のお客さんと俺のお客さんがかぶってて、俺が転勤になったこと聞いたって。保坂さんも、1年前、俺と全く同じことがあって辞めざるを得なくなって転職したらしいんだ。その前も、もう俺で5人目らしい、そういう目に合うの。社長が疑心暗鬼で、自分でこういう仕事やりたいって声をあげるような社員を順番にターゲットしぼっていく、みたいな」
「そんなこと言ったの?」
「まあ、こういうふうにした方が効率がいいとか、売り上げを上がるためのプレゼンみたいのは、普通にするでしょ。でも、それが気に食わないと、パワハラに見えないように、転勤させるって言って悪条件付けて、辞めるって言い出すのを待つらしい」
「今まで辞めた人と組んで、訴訟起こせば?」
「ははは。みんな思ってるけど、そんなお金と時間のかかることやれる人はいないんだよ」亮一は、力なく笑った。
それから1週間で、亮一はみるみるやつれていった。転勤を目前に、訴えて当然のようなパワハラがあるようだった。
亮一が倒れてからだいぶ経って今は元気になっているが、それでもやはり単身赴任させることに不安もあったし、経済的な負担が増えることも納得いかなかったし、意味の分からないパワハラにも疑問が持った彩也子は、亮一に聞いた。
「本当に、転勤なんかして大丈夫なの?」
「・・・うーん、迷ってる。子どもたちにお金がかかる時期だから、今より収入が上がる所に転職できればいいけど、年齢的にもそれは条件的に厳しいと思うし。でも一応、探してみてはいる」
「転勤しないで、転職するってこと?」
亮一の会社に腹が立ったが、今、亮一に仕事を辞められては困る。子どもたちの生活に支障が出るのは嫌だった。彩也子は、頭を抱えた。
その翌週、ついに体調を崩して亮一は、退職を申し出た。自主退職だからと、退職金も出なかった。
「その会社、法に触れてるでしょ!」
彩也子は憤ったが、亮一に会社と戦うような気力はなくなっていた。
亮一が会社を辞めたことを知った保坂さんが、とりあえず、次の職場が決まるまで自分の仕事を手伝ってくれないかと言ってくれたおかげで、なんとか無職になることは逃れた。
半年ほど保坂さんに世話になってから、亮一はやっと大手の作業車両販売の会社に再就職が決まった。初めのうちは、
「作業車両は単価が高い分、付き合いができるとずっと顧客になってもらえる可能性が高いから、契約成立の手当がすごいらしいんだ。なんか夢がある」
などと張り切っていたが、いざ始まってみると、顧客は固定で新規などはほとんどなく、その顧客の取り合いはすさまじく、おまけに作業車両の知識がない亮一には、単独で営業などさせてもらえもしなかった。
亮一の悪い癖が出始めた。
「つらいけど、頑張るしかないし」
彩也子は少しは心配になったが、結婚したばかりで仕事を辞めようとしていた頃の亮一の姿がダブった。やりたくないことを嫌々やり続け、心身ともにやつれた姿を見せて「ずっとこんな不機嫌でもいいんだな」と圧をかけてくる、あの姿が。もう分かっていたから「もう辞めれば」と、彩也子からは絶対に言いたくなかった。
半年で10キロほど痩せてみせた亮一は、ドクターストップだと、心の病気の診断書を持って会社を辞めた。
亮一はもう50歳を過ぎたところだったので、都会ならまだしも、この歳で再就職先を探すのは、地方都市ではなかなか厳しかった。アルバイト的に職を転々とし、結局、最初に始めたインテリア雑貨や内装を扱う仕事をしていた時の関連会社に雇ってもらった。
どうしてもその会社に行きたかったわけではなく、とにかく収入が必要で決めた会社だったので、亮一は、最初から文句ばかり言っていた。
彩也子も50歳も目前にして多少の更年期症状が出始め、心と体のバランスを崩していた時期だったので、自分の仕事に通いつつ、経済的に不安定で亮一が仕事に不満も漏らすこともまた大きなストレスになっていた。
亮一は、子どもたちの教育費と生活費を維持するためになんとか仕事を続けていたが、2年も経たないうちに、亮一がまたやつれ始めた。昔ながらの義理と人情的な足で稼ぐ営業をしたい亮一に、自分より若い上司が、今どきの販売方法を指示してくるのが耐えられなくなっていた。
亮一は、お酒を飲むとたびたび、やっぱり自分は自分で仕事をしたい、というような話をしたが、もともとサラリーマン家庭で育った固定収入のある安定した生活を望んでいた彩也子は、転職を何度もすることを恥ずかしいとも思わない亮一がを理解できなかった。酔っぱらいの戯言と言い聞かせながら、本気で取り合うことはあえてしなかった。
亮一は、いつになったら家族のことを一番に考えてくれるんだろう。いつも自分の仕事のことでいっぱいいっぱいで、家族のこととか家族との将来の夢とか、そんなものに一切興味がないことが見ていて分かるのもつらかった。それでも彩也子は、子どもたちが巣立つまではどんな低空飛行でも粘って生きていくしかなかった。
亮一が企てていた将来設計は仕事のことばかりで、家族の将来をそこに絡めるなんて思いもしなかったのだ。それが、彩也子には信じられなかった。それを亮一にぶつけることも、もうできなかった。でもまた、彩也子の第六感が働いた。亮一の話しぶりから、もう自分で仕事を始めようとしているんじゃないかと。
(いつまでこんな不安定な生活させられなきゃいけないの?いつも自分の夢ばっかり語って、私の生き方なんかどうでもいいと思ってるでしょ?!あなたのせいで、私は夢を全部捨てさせれてるのに!)
なんの保証もない亮一の現実的に聞こえる夢の話を聞かされて、心では激しく叫んだが、実際の声には出せなかった。
彩也子自身の人生をないがしろにされたような気がしてきて、耐えられなかった。何度同じことを繰り返すんだろう。もう、亮一に何を言えばわかってもらえるのかも分からなかった。きっと何を言ってもわかってもらえることなんかないのかもしれない。
(この歳で、もうこの悩みはキツイ・・・)
彩也子は、両手でかき上げた髪を強く掴んだままうなだれた。
動き出した蟻は、仲間を呼び、大きく深い穴を掘り進め、堤防の基礎を揺るがし始めていた。
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