蟻の穴から堤は崩れる
樵丘 夜音
プロローグ
「いい加減にしてよ!言ってた話と全然違う!」
「だったら、自分で生活できるくらい働けよ」
「なんで、私がそこまで?どの口が、私にそんなこと言えるのよ!」
「話が違うとか言うからだよ」
「あなたはいつも夢みたいなことばっかり言って勝手なことしてるくせに!?」
「だったら、節約しろよ」
「してるじゃない!自分はゴルフ行ったり飲み会行ったりしてるのに!」
「俺の金だよ」
「はあ!?」
私は、初めて夫につかみかかった。夫は、振り上げた私の腕をつかんで簡単に抑え込んだ。夫と一瞬、目が合った。夫の目の奥に怒りが見えた。
あなたは私に怒りを向けられる立場じゃない。
私の沸点を越えた。
空いていた左手で、思い切り夫の頬を叩いた。
「私の人生、返してよ!返せないなら、殺してよ!!!」
◇ ◇ ◇
夫・片山亮一、55歳。妻・彩也子、52歳。去年、銀婚式を迎えた。
迎えた、と言っても、結婚生活が25年目になったというだけで、夫から感謝の言葉や品物もなければレストランの予約もない。結婚した日というだけの、いつも通りの一年のうちの一日。
彩也子は、祝ってほしいとは思わないが、ここまでなんとかやってこられた私の我慢と忍耐と労力に対して一言あってもいいんじゃないか、とは思っていた。
子どもたちが大学生になってそれぞれ一人暮らしを始め、夫婦二人きりの生活になったのは3年前だ。最初のうちは、子どもための時間が激減して、やらなければいけないことも減り、時間を自由に使えるようになってとても気が楽になった。と同時に、週末ちょこっと子どもと出かけたりしていたのができなくなり、仕方なく夫婦で外出することが増えた。
映画も観に行ったし、ドライブや外食にも気軽に行った。彩也子は楽しいと思ったことはなかったが。
「仲がいいね」
なんて言われることもあったが、彩也子の中では、一緒に行く人が今は夫しかいないから仕方なく一緒に出かけているという意識しかなかったから、本心で、
「全然仲良くなんてないですよ」と返していたが、
「またまた~」なんて言われて、憤慨していた。
それでも、外に出れば気も紛れるし、誘われれば断らなかったし、行ってみたい所があれば亮一に声をかけることもあった。
様子がおかしくなってきたのは、感染症の大流行で外出ができない世界情勢になってからかもしれない。
我慢を強いられる生活をしなければならない上で、その基準の違いに苛立ちを感じ始めた。考え方の違い、我慢の限度の違い、予防に関する意識の違い、受け流せない感覚の違いに本気で「無理」と思い始めた。
小さな感覚の違いはすべてのものの考え方の違いだと、彩也子は気付いてしまったのだ。
どうしよう。
夫婦のほころびは、いつも亮一が作ってきた。それを全部、彩也子が我慢して繕ってきた。今まで何度も「無理」と思うことはあったけれど、彩也子は、子どもたちのために今の生活を維持することを選んだ。自分さえ我慢すれば今の生活を守れると思ったからだ。25年間、彩也子の我慢と努力で片山家は成り立ってきた。子どもたちのため、と思ったからできた我慢と努力だった。
子どもたちが手を離れた今、彩也子は我慢と努力を続ける理由を失った。そこへ亮一の俺様な言動。
彩也子は、許せなかった。惨めで、悔しかった。
なんで、結婚なんかしちゃったんだろう。
なんで、亮一を選んじゃったんだろう。
私の人生、こんなはずじゃなかったのに。
何度、口にしてみても、虚しくなるだけだった。
せっかく築いた結婚という堤防に、
いつから蟻は、穴を開け始めていたのだろう。
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