第十話 勝利への方程式
(問題) こちらの攻撃が全く通用しません。どうしますか?
1.威力の高い攻撃を行なう。
2.より強力な武器に変更する。
3.降参する。
4.とりあえず踊る。
5.別の手段を行使する。
この世界に生を受け、物心付いた頃から日々の鍛錬を怠った事はない。そうした自負があったからか、どこか甘い考えを持っていた。ましてや敵は前世ではゲーム等で雑魚扱いされていた存在である。実際には違うとは分かっていても、変な先入観を持っていたのだろうと改めて思う。
今日初めて実感する。ここが本当に異世界である事を。これまでの先入観や常識が通用しない世界である事を。そして、本当の意味で死の淵に立っている事を。
そんな相手と戦う。しかも勝たなければいけない。何を選択すれば良いのか? そもそも選択肢はこれで良いのか?
切れた左の
間断なく繰り出される緑色の拳の脅威。心臓を縮み上がらせるような咆哮。一つでも間違うと命さえも取られかねない死の恐怖──それがガードする両腕に重く圧し掛かり、感覚さえも奪っていく。
「ハァ、ハァ、ハァッ……」
何とか距離を取り、必死で息を整える。出題された超難問の勝利への方程式。それを解く鍵は一体何なのか?
それ以前に「解自体が無いんじゃないか」という不安が侵食を始めていた。
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
一巻き一巻きを丁寧に行ないながら、さっき見た姉さんの悲壮な顔を思い出す。
「今日は絶対に負けられないな」
明らかに泣き腫らした赤い眼とその下にあるクマが印象的だった。
姉を怒らせた翌日、改めて様子見に実家を訪ねる。少しは機嫌を直してくれていないだろうかと淡い期待を持っていたが、それはあっさりと霧散する。堅く閉ざされた作業場の扉は何も変わっていなかった。
扉の向こうに声を掛けても返事すらない取り付くしまもない状態。鍵でも掛けているのか中に入る事もできない。
そして今日、試合前にも実家に顔を出す。
父と母は、食事も取らずに引き篭もる姉をずっと心配しており、気が気でない様子。すっかり疲弊していた。
そうして託された冷めたスープとパンを手にして作業場の扉の前に来る。
「……姉さん、扉の横に食事を置いておくから後で食べて」
やはり今日も反応は無い。
「昨日はごめんなさい。大声を上げたりして……」
俺もあの時は動揺していたのだろう。姉が引き篭もったと知らされ、何度も扉を叩き、大声で名前を呼んでしまっていた。後になって怖い思いをさせたのだと気付く。まずはその事で謝罪を口にした。
「それと、今から試合に行ってくるよ。きちんと勝つから安心して」
だから、今日は大きな音を立てたりはしない。返事のある無しは気にせず、自分が今思っている事をカルメラ姉さんに聞いてもらおうと思っていた。
そんな思いを胸に、扉に向かって話しかける。
「剣闘士として戦う事をカルメラ姉さんに黙っていた事は謝るよ。けれども分かって欲しい。これはどうしようもなかったんだ。もしあの時、剣闘士になる事を断っていたら、鉱山送りになって今頃は死んでいたかもしれないからさ……」
この世界には重犯罪者を対象とした犯罪奴隷の仕事があるが、それは鉱山労働等の過酷で衛生環境が整っていない仕事である。大抵は二、三年で体を壊し死に至る。当時どの職場からも欠陥品の烙印を押された俺は、もう少しでそこに落とされる所だった。
「よいしょっと……」
話していて何だかしっくりこないなと思い正座となる。ここでは俺はこれが似合う。
「そう思うと、変な事を言うようだけど実は剣闘士になったのも悪くなかったんじゃないかと思っているんだ。この町にやって来て、そして姉さんや父さん、母さんに会えた事。それは剣闘士を選んだからかもしれないってね。姉さんが言うようにこの仕事はいつ大怪我をするかもしれない。下手をすると死ぬ事になる。そんな危険な仕事だけど……」
そうして一息付き言葉を続ける。
「それだけじゃない、そんな風に思うんだ。だからさ、頑張ってくるよ。終わったらまた来るから、次は姉さんの笑顔で迎えて欲しいな」
上手く言えたかどうかは分からないが、これが今の俺の気持ちである。上手く言葉にする事はできないが、こういうのをきっと"縁"と言うのだろう。そんな気がする。
そろそろ闘技場に向かおうかと思い立ち上がった所で、ゴトゴトと扉が揺れる。
やがて、
「今回だけよ。今回だけはデリックに守ってもらうわ」
そう言いながら、か細い声で姉の貯金と思われる大量のお金が入った麻袋を俺に手渡してくれた。
「あっ、ありがとう。姉さん」
それからは父に事情を話し、急いで賭け札を買いに走る。賭けるのは当然俺の試合。デビュー戦なのでオッズも高い。これで一発逆転の舞台が整う。
「……と、こんな感じかな?」
巻き付け終わった布の具合を確かめる。腕を曲げ、伸ばし、捻り、払う。左脚を移動させ、右脚の移動と同時にまた腕を振る。気が付けば空手の型のようなシャドーボクシングのような事をしていた。
うん。大丈夫そうだ。
最後はテーブルの上に置かれた手袋を手に取り、指を通す。
「行くか」
カツンという足音が通用口にこだましていた。
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
直径十メートル程度の円状のリングで俺と対戦相手である緑色の怪物が向き合う。周囲の石壁は高く逃げられない。ここは二人だけの場所。踏みしめる大地は固く、足元はしっかりとしている。だが、そうかと思うと実際には微妙なデコボコがあり、小石や金属の欠片が散乱している。敵は目の前の相手だけではない。
吹き降ろす風が頬を撫でつける。心地良い暖かさをもたらす中天の太陽。まさに行楽日和とも言える週末のこの時。それは俺のデビュー戦。ルーキーにはとても似つかわしい。物見遊山としてもピッタリだ。
……だが、それをぶち壊す似つかわしくない存在があった。
目の前の相手──俺の身長よりも十センチ以上は高い。一七〇後半といった所だろうか。加えて身体つきもしっかりとしており、肩の筋肉が盛り上がっている。潰れた鼻に尖った耳。首も太くなっており、足は短く腕は長い。なお、得物は持っていない。
対する俺。成人もしていないお子様。身体つきも成長途中というか、まだ線が細い。色褪せた麻の上下に真新しい茶色の手袋だけが目立つ。そして、手にするはバスタードソードサイズの木の棍棒。要するに少し長いだけ。それをトンボに構える。
まさに大人と子供。勝負などしなくとも、始めから結果が分かるような存在感の違いだった。
まばらな客席からはざわつきと共に無慈悲な罵声が飛び出す。その気持ちは分かる。こんなクソ試合、怒り出さない方がおかしい。
──かくいう当事者であるこの俺自身も同じ気持ちだからだ。
デビュー戦用のゴブリンは一体どうした。どう考えても目の前のコイツはルーキーの相手ではない。今にもボイコットして逃げ出したい気分である。
しかし、今の俺にはそれはできない。姉から預かった金は全て賭け札へと変わり引けない状態。
もし手違いだと言うなら、運営が急いで対戦相手を変更するだろう。だが現実にはそういった素振りは一切無い。そのまま試合を開始する気である。つまり俺が「聞いていたのと違う」と言って戦いを拒否したり運営に異議を唱える事=俺の負けとなり、賭けた金は全て紙くずとなる可能性が高い。
結論:戦うしかない。
そんな俺の心中などお構いなしに客席からはとても暖かなヤジが降り注ぐ。その後に口にする酒の味がまた格別なのだろう。大衆娯楽とはよく言ったものだ。
「けど、ここまで期待されないルーキーは俺くらいじゃないのか? まあ、俺らしいと言えば俺らしいか。なら、皆さんには後で吠え面かいて貰いましょうかね」
何というか、ここまでの状況だと逆に緊張感が吹っ飛んでしまう。もう少し口が渇いたり、手に汗をかいたりするものだと思っていた。
要は目の前の相手に集中すれば良い。下手に期待されないというのは気楽なものだ。そういう点では観客には素直に感謝するべきだな。
そんな事を考えながら、真上に構えた棍棒の軸を軽く回す。
「それにしても、俺の着ている服より上等なのがムカつくな」
戦う相手がゴブリンというからには、身に付けているのは腰に布を巻いているだけかと思った。だが目の前の相手はそうではない。普通にタンクトップにショートパンツという出で立ち。さすがに腰布だとポロリが恐いという所だろう。
ここで一度構えを解き、深呼吸をする。
敵が強かろうと弱かろうと、俺自身がきちんと動けなければどんな相手にも絶対に負ける。場の雰囲気とはまた別に俺自身が全力を出しきらないといけない。まずは一歩目。それを踏み出す勇気が必要だ。
"とにかく奇襲だ。満足な状態になる前に有効打を数多く浴びせろ"
"作戦なんか考えるな。相手をぶちのめす事だけ考えろ。頭より先に身体を動かせ"
"相手は雑魚だ。あの姿は見掛け倒しだ。俺なら勝てる"
魔法の呪文。自己暗示。単なる危ない奴。何でも良い。気持ちで負けると身体も動かなくなるので、自己暗示をひたすらに呟いていく。
その時、横に控えていた審判員から俺に向けて匂い袋が投げられる。当たった瞬間、辺りにジャコウのような匂いが広がる。良く分からないが、この匂いがゴブリンを興奮させ戦闘状態にさせるらしい。後は開始の合図で試合が始まる。
刻一刻と迫る合図にピリピリとした空気が場を満たすが、そんな事はどうでも良いとばかりに俺は無造作に相手に近付く。
審判も相手のゴブリンもこれから俺が何をするつもりなのか分かっていない。ありがたい事に注意される事も警戒される事もなく、ただ黙って見送ってくれた。そして、手を伸ばせば届く距離まで近付く。
今日の良き日にはこんな時、渾身の気持ち悪いスマイルが良く似合う。
俺の意味不明の行動に向こうも意表を突かれたのか、完全に棒立ちとなっていた。
──なら、
そのまま大きく棍棒を振り被り、
「オラッッ!!」
──ずっと突っ立ってろよ。
渾身の一撃を頭頂部にプレゼントした。
「はっ、始め!」
開始の合図前の奇襲攻撃。手元に確かな手応えが伝わる。ずっとニヤけた面で俺の事を見ていたが、これで少しは頭が冷めただろう。丁度良いハンデだ。
「けど、このままくたばってもらうけどな!」
客席からはブーイングが出るがそんな事を気にする余裕は無い。ヤジが飛ぼうが全てを無視する。
折角良い一撃を入れたんだ。このままにするのは勿体無い。威力は落ちるが一気にシバきあげる。袈裟、逆袈裟を繰り返し、鎖骨から肩口にかけ何度も棍棒を叩きつけた。
「死ねや!!」
トドメとばかりに大きく振り被ってタメを作る。
ははっ。何だ。簡単じゃないか。ガタイのデカさに少しビビったがそうでもなかったな。これだけ連続で入ったんだ、相手も相当弱っている筈。このまま終わらせてやる。
──だが、
「えっ?」
突然、俺に向かってくる緑色の物体が目の前に現れる。
パンという乾いた音が場内に響いた。
予想外の出来事になす術もない俺は、当たり前のようにそれを喰らう。顔面に入った事で、バランスを崩して大きく後ろに下がってしまった。
ルール無用のダーティー野郎への反撃の一打。その瞬間、客席が一斉に湧いたのは当然の成り行きと言えるだろう。
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