夏の五題
サトウ・レン
夏夜の幻
熱帯夜、と呼ぶほどではないけれど、ひとかけらの涼しさも感じ取れない夜風はどこまでも夏だった。雪国と呼ばれていても、年がら年中、涼しい、というわけではもちろんない。今年の夏は地元で過ごそうと思っている、と大学の友人に伝えると、涼しそうでいいなぁ、なんて僕の住む県の名を挙げながら羨ましがっていたが、もしこの場にいたとしたら、この暑さにどんな文句を付けるだろうか。雪国だろうが、暑いものは暑い。
『俺さ、実は結婚したんだ』
きっかけはそんな昔なじみからの電話だった。結婚した、と聞いた時、すぐに理解が追い付かなかった。僕たちはまだ互いに二十一という年齢で、法的に結婚ができる年齢だ、ともちろん知識としては知っていても、自分たちにはまだまだ先のイベント事のように、すくなくとも僕は感じていたからだ。もう子どもじゃないんだよ、と何の脈絡もなく、いきなり世間から諭されてしまったような気分に近いのかもしれない。
『誰と?』
そう聞くと、彼はお互いに小学生の時から知っている、同級生の女性の名前を挙げた。
そうか、彼女と……。
『いまのところ、式を挙げるつもりはないんだけど、この年だし、久し振りに昔のメンバーで集まって、みんなで飲むのも悪くないかな、って思ってさ』
昔のメンバー、というのは小学生くらいの頃に関わりの多かった近所の子どもたちの総称だ。その中に僕が含められているのは不思議な感覚だった。大学入学を機に地元から離れた僕が、いまでも連絡を取り合っているのは、彼くらいしかいなかったからだ。とはいえ、なんとなく疎遠になってしまっただけで、他の彼らに対して、嫌い、とかそういう感情はない。
彼の部屋には、彼と、彼と結婚したばかりの女性がいて、他は僕を含めて六人の、全員で八人の小学校の頃の同級生たちがひとつの部屋に収まっていた。夫婦で過ごすにはすこし広めにも感じる部屋だけど、八人も集まると、さすがに狭く感じてしまう。僕が部屋に入った時には、すでに僕以外は全員揃っていて、みんな思い思いに、ビールを飲み、つまみを頬張っていた。
久し振り。元気にしてた。そんな声の飛び交う中に混じって、彼らは久し振りに会った僕に対しても明るく接してくれる。ただ疎外感、というと大袈裟かもしれないけれど、いまも地元で暮らして関わりも多いだろう彼らと、地元から離れてしまって今回の主役以外とは没交渉になっていた僕との間に、すくなくとも僕は距離を感じてしまっていた。彼らの気持ちが実際にどうなのかは別問題で、これは自分自身の感情の問題だろう。
そんな想いが募っていたこともある。
すこし時間が経ったあと、
『ちょっと夜風でも浴びてくる』
と言って、ひとり外に出て、当てもなく歩き、いまにいたる、という感じだ。
久し振り、と言っても、まだ一年振りくらいの話で、見慣れぬ景色なんてほとんどないが、それでもゆっくり景色を見回す機会なんてなかったので、懐かしい気持ちは萌してきて、気付けば本当に古い記憶を喚起する場所まで足を運んでしまっていた。
いま僕がいるのは隣の市との境目あたりで、そう言えば、とふと小学生の頃、彼と一緒に冒険と称して、この辺りまでよく訪れていたのを思い出す。そんな彼が結婚したなんて、いまでもまだ信じられない。子どもの足では遠く感じた場所も、いまの年齢になると、すこし長めの散歩程度に行けるところになってしまった。
俺たちの秘密基地にしないか。絶対に誰にも言っちゃだめだからな。
そうだ、そう言って僕たちは幼い頃、ふたりだけの秘密基地を作ったのだ。僕たちが大人になる過程の中で、秘密基地として使っていたあの廃屋はすでに壊されている、とばかり思っていた。
だけど、久し振りにその廃屋があった場所へと行くと、その家はあの頃のまま、姿形を残していて、僕はその変わらぬ光景に思わず息を呑んだ。
廃屋、と呼んだが、外壁の塗装のあちこちが剥げ、周囲の雑草が伸び切ったその家が、本当に廃屋だったのかどうかは正直分からない。住居人の存在は、最後まで不明瞭なままだった。なんにしても、人間の生活感がまったく感じられない家屋だったことは事実だ。いまはどうなのか知らないが、誰が住んでいるのか不明な家屋、というのは、当時それなりに見掛ける機会があったように思う。
彼とふたりでここを見つけたのは、小学校の、あれは確か三年生か四年生か、そのくらいだったはずだ。僕や彼も、多くの子どもたちと同様、日常とはすこし違う、ここではないどこか、を求めていた。日常の中にある非日常を探すことで、好奇心を満たしていた時期だ。だからすこし遠出をした時に見つけたその廃屋が、とてつもなく魅力的に思えたのかもしれない。
中に足を踏み入れてみると、当時と変わらずやっぱりその屋内には朽ちた木片が床にちらばり、急に壊れてしまったとしても驚かないような状態だった。台所にはもう確認しなくても消費期限が切れていると分かるインスタントラーメンが残っている。
あの頃は、僕たちだけが見つけたファンタジーのような世界だ、と思っていたのに、な。
僕と彼はそこを秘密基地にしてから、よくそこを訪れるようになった。言ってしまえば、不法侵入に当たる可能性も高く、褒められた行為ではないのだが、とはいえ咎めるひとがいるような建物だったか、というと疑問が残る。危ないからやめろ、と言われるほうが理解できる建物だった。
僕たちはよく携帯ゲーム機やマンガなんかを持ち込んだり、あとは長々とどうでもいいことをしゃべったりして、時間を過ごした。結局、やっていることは家や近場でもできることなので、誰も知らないところに自分たちだけの居場所がある、というのがやはり当時の僕たちにとって特別だったのかもしれない。
『なぁ、好きな女の子、っている?』
いつの間にか読んでいたマンガを床に置いていた彼が、いまにも壊れそうな背もたれ付きの椅子を揺らしながら、僕に聞いた時があった。
『好きな、子? うーん、あんまり考えたことないよ』
『じゃあ、いま考えろよ』
たぶん彼の言葉に、当時の僕の表情は明らかに険しくなっていたはずだ。僕はいまもそうだが、昔からこういう話題が苦手だった。当時は幼かったこともあり、うまくその理由を言語化できずにいたのだが、こういうのは結局、誰の名前を挙げても、茶化されたり、角が立ったり、と嫌な想いをすることが多い、と子どもながら気付いていたのかもしれない。
でも、彼からそんな言葉を聞いた時、ふと頭に浮かんだ少女の顔があり、僕はその名前を言うべきか迷っているうちに、
『藤坂、とか?』
と彼が言い、僕は言わなくてほっとしたのを覚えている。僕の頭に浮かんだ少女の名前を、先手を打つようにして彼が言ったからだ。僕が先に言えば、きっと彼にからかわれる、とその時の僕は思っていた。
『ち、違うよ』
『……そっか、なら、良かった』
と彼の返答な意外なほど素っ気なくて、すこし残念そうだった。理由が分かるのはすこし経ってからなのだが、この時にはまったく気付きもしなかったのだ。
藤坂緑は僕たちのクラスメートで、感情豊かで、おしゃべりで、元気の良い少女、という印象があり、ぐいぐい相手との距離を詰めてくる性格だったので、彼女を好きな男子と苦手な男子は、たぶん半分半分くらいだったように思う。そんなに自分から積極的に周りとしゃべるほうではなかった僕にとって、相手から来てくれるほうが気楽だったし、その性格自体、自分には無いもので、魅力的に映っていたのかもしれない。
実は一度だけ、僕は彼女とこの秘密基地を訪れたことがある。
僕と彼がいつも連れ立って放課後にどこかへ行くことを、藤坂が勘付いたみたいで、なんか最近ふたり怪しくない、と問い詰めるような眼差しを向けてきたのだ。
『……そんなことないよ』
『嘘だぁ。絶対、なんか隠してる!』
そう言われても、僕としては彼と秘密にする約束があるので、答えるわけにはいかない、と隠し続けていたのだが、彼女は僕が思っていた以上に諦めが悪く、結局、最後は僕が根負けすることになったのだ。
僕が彼女とふたり、彼に内緒でこの廃屋に向かったのは、いまと同じような暑い夏の時期で、夏休みに入るすこし前だったような記憶がある。彼にばれないように、と遅い時間に待ち合わせる約束をしたので、辺りは暗くなっていて、何をしていなくても汗が浮かんでくる暑い夏の夜に、ふたりきり、という状況にやけに緊張したのを覚えている。
『なんか、わくわくするね』
彼女は不安そうな表情もなく、いつも通り元気そうだったが、僕は家族に嘘をついての夜の遠出に、何か起こるんじゃないか、と不安でいっぱいだった。
そして実際に、起こってしまったのだ。想像もしていなかった出来事が。
いままで廃屋に僕たち以外の誰かがいたことはなく、人の気配さえ感じたことはなかったのだけれど、その夜だけ、僕は玄関の前に立った時から人の気配を感じていた。やっぱり今日はやめよう、とそんな言葉が出かかったけれど、結局は言えなかった。臆病者と彼女に言われるのも嫌で、さらに彼女は何も感じていないのか、僕がためらっているうちに、玄関のドアを開けてしまったからだ。
入ると、そこには大男がいた……、いや厳密に言うと、たぶん大男というほど身体は大きくなく、きっと中肉中背の一般的な成人男性だったのだ、とは思うのだけれど、その時のインパクトも含めて、当時の僕には、威圧的な、巨大な男に見えた。
その状況に似合わない表情を、そのひとは浮かべていた。驚き、困惑しながらも、どこか不思議そうな、そんな表情だ。
回想していた意識を逸らすような足音が聞こえ、振り返ると、そこには男の子と女の子がいて、不安そうに僕を見ていた。
あぁ、そうか……。
僕はずっとあの出来事を疑問に思っていた。だけど、ようやくその謎が解けたみたいだ。ゆっくりと僕が彼らに近付くと、ふたり、特に男の子のほうが怯えた表情を浮かべていた。怖がらせるつもりはないのだが、それでも怖いだろう。その気持ちは、すごくよく分かる。
僕もあの時、怖くて仕方なかった。
申し訳ない、という想いもあるけれど、あの時と同じように、今度は僕があの大男と同じ役割を演じなければならない。だって、そうしないと……。
「もうここに来てはいけないよ。怖いお兄ちゃんがいるからね。ほら、もう帰れ。無理なんかして、こんな夜に女の子と来るくらいなら、もっと家族や友達を大切にしなさい。嘘なんかついたら駄目だよ」
僕はそう言って、かつての僕の頭を撫でた。あの頃ずっと不思議だったのだ。なんで、僕が嘘をついた、とか、そんなことを知っているのか、と。そりゃ、僕自身なんだから、知っているのは当然の話だ。
かつての僕たちが逃げるように帰っていく。
過去の僕と同じ未来を辿るのなら、次の日に、かつての僕は彼に、もうあそこに行くのはやめよう、と言うことになる。その理由として藤坂に秘密基地の場所を教えてしまったこともばらしてしまい、彼が怒って、そして確か僕たちは喧嘩をしたのだ。……でも結局は仲直りして、それからは僕と彼、藤坂の三人は一緒にいる機会が多くなった。
気付けば僕は、何もない荒れ地の中にいて、辺りを見回してもあの廃屋の姿はどこにも見当たらない。やっぱりもうすでに取り壊されてしまっているのだろう、今の時代では。わずかな間だけ、僕を現在から過去へと運んでくれた幻想のタイムスリップ装置……だったのかどうかは分からないが、とりあえずそう思うことにした。
スマホの着信音が鳴り、確認すると、何件も着信が残っている。きっと心配しているか、あるいは怒っているだろう。
「ごめん。すぐに戻る」
『ったく、いつまで夜風浴びてるんだよ。どうせ、あれだろ。居心地悪くなったから、いなくなったんだろ。もう他の奴は帰ったから、あとは三人で飲もうぜ。あいつだって楽しみにしてたんだから、怒らせるなよ』
「悪い悪い。藤坂……あぁそうか、もう名字、違うんだったな。お前のかわいい奥さんにも、ごめん、って言っておいて。もちろん戻ったら、僕も、ちゃんと謝るから」
通話を切る。
からかい混じりの、かわいい奥さん、という言葉に、きっと彼は照れた表情を浮かべているだろうけれど、このくらいは許してくれ。
僕にとっても初恋だったんだから。
いまに向かって、僕は駆けだした。
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