【2.1.2】 伝承の向こう側にいるもの。

 「これは、ずいぶんと懐かしい話だな。」



 黒い尻尾をゆらりと揺らしたクロが、棚の上からギンを見下ろすようにして言った。倫太郎がクロの視線を追えば、ギンの手元で開かれた絵本の中で、浦島太郎が子供たちからカメを助けている様子が描かれていた。



 「ああ、バカな精霊もいたもんだ。」



 ギンは絵本にその視線を落としたまま、馬鹿にしたように言った。ぱらりとページをめくる。助けられたカメが、浦島太郎に話しかけている。「竜宮城へご招待します。」とでも言っていそうな場面だった。


 バカな精霊とは、このカメのことだろうか。それとも乙姫のことか。どちらも精霊だとすれば、浦島太郎はその姿を見ることができたということなのだろうか。———倫太郎がそんなことを考えていれば、「昔は、人間にも精霊が見えるやつが少なからずいた。」とクロが言った。その声色は、少し寂しそうにも聞こえた。



「精霊の数が減ったことも大きいが、それ以上に人間達が形に囚われるようになって、その目を閉じたんだ。」



 クロによって足された言葉に、倫太郎には思い当たる節があった。昔は未知のものがもっとあったはずだ。しかし、それらは科学という名のもとに理由付けされ、その存在を着々と消していっている。


 そういえば。———と、日本の伝承についてあの高校の社会科教師が言っていた言葉を倫太郎は思い出した。



『まだ説明しきれていなものが山ほどあるが、それらは全て見えない生物がいると仮定すれば解決する。』



 授業中に話を脱線させてそう述べた社会科教師は、日本の伝承について調べるのが好きな人で、その元ネタを探ってはSNSにアップしていたのを思い出す。

 受験に関係の無い内容だったせいで、聞いている生徒は少なかったように思うが、倫太郎には妙に刺さった内容だった。その教師のSNSも見たが、元のネタとの整合性を考えればやはり何かが足りないと感じるものばかりで、その教師の言っていることに信憑性を与えている興味深い内容のものだった。

 

 あの社会科教師の授業の時間は、あの学校で唯一好きな時間だった。倫太郎の心で動いた何かが、違和感を残していった。



 「その絵本、ずーっと前からここにあるわ。」とお岩さんがギンに話しかけている。「人間達も、語り継いでるのか。」と、ギンは笑ったようだった。


 どうやら、浦島太郎は存在したらしい。

 

 彼らの話を合わせれば、どうやらそういうことらしい。確かに、日本の昔話には、その話のネタとなるような何かがあったと聞いたことがある。おそらくそれも、あの社会科教師によるものだったはずだ。

 金太郎は、坂田金時という人物が題材であるとか、桃太郎に出てくる鬼は温羅という渡来人で、それを倒したとされる吉備津彦命が桃太郎のモデルであるとか。

 そういったことが本当かどうかを検証する術は無いが、それでも何か元になるような話があって、そういった昔話が作られた可能性を完全に否定することはできないと社会科教師は言っていた。



「本当にあった話ってこと?」 



 岸間が目を見開き、ギンに向かって言った。かなり反応が遅いのは、この状況が飲み込めていないせいだろう。しかし、浦島太郎が実話かどうかより、今目の前で喋っている猫とか、小さい幽霊とか、よほどそちらの方が驚くべきことではないのか。───倫太郎がそんなことを思っていたら、棚の上のクロと視線があった。クロは、ひどく呆れたようにうんうんと頷いた。

 


「ここにある本は、私達に関わりの深いものがとても多いわ。事実かどうかは私たちにもわからないけれど、そういった話があったらしいということは聞いているから、あながち間違いでもないはずよ。」



 お岩さんが、岸間に向かって笑ったような気がした。顔は髪の毛でほとんど隠れているにも関わらず、彼女の持つ空気はとても柔らかい。



「じゃあ、浦島太郎に出てくるカメとか乙姫は、…精霊?」



 倫太郎が独り言のようにそう言えば、岸間が目を輝かせてこちらを見ていた。精霊という名前が出て興奮しているのだろうか。今、岸間の前には、幽霊と黒猫の形をした本物がいるというのに。



「だから、害獣って言われるんだ。」と、クロがぼそりと呟いた。それが聞こえたらしい岸間は、今度はクロにキラキラの視線を向ける。自分に対して言われた言葉とは、微塵も思っていないらしい。会話の内容がわかっているわけではなく、ただ童話に関連した話だと思っているのだろうか。

 彼女は、未知の生物達が怖くはないのだろうか。


 (岸間の方が、よっぽど未知の生物だな。)


 心の中で呟いた倫太郎に、耳をピクリと動かしながら目を向けたクロが、またしてもうんうんと頷いた。



「これは、有名な話だな。下等動物を使って、人間をおびき寄せていたんだろう?」



 そう言ってギンがページをめくれば、ちょうど竜宮城についた場面で、カメの背中に乗った浦島太郎を、乙姫が出迎えているところだった。まわりには魚たちが立ち並び、その不思議な空間を彩っている。



「ということは、乙姫が精霊で、カメは下等動物?」

「そう聞いた。」

「じゃあ、乙姫は食べるために浦島太郎をおびき寄せたってこと?」



 精霊は、人間を食べる。人間そのものなのか、人間から生まれる何かなのかはまだわからないが、精霊が何らかの形で人間に依存しているということは、倫太郎にもわかってきた。



「まあ、良い。見てみればわかる。倫太郎がいれば、この中だってそれなりに見れたものになるだろう。」



 ギンはそう言いながら、あっという間にグワリと世界歪ませた。「うわ!」という声が聞こえた気がした。倫太郎もずいぶん慣れたつもりでいたが、心の準備もないままに移動されてしまっては、さすがに焦った。



(頼むから、心の準備をさせて欲しい。)



 何か掴むものをと手を伸ばしながら、倫太郎がそんなことを考えたときには、燦々と太陽が照りつける大海原の目の前にいたのだった。







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