【3.2.0】 動き出した、景色。

 朝、10時。


 駅前に集合ということで、倫太郎がギンを後部座席に、クロを肩に乗せて自転車で駅に向かうと、なぜかそこに岸間春がいた。


 まさかと思いつつ、一時預かりの駐輪場に母親の自転車を置きに行く。再びそこに戻れば、先に自転車を下りていたギンが、春に挨拶されていた。

「は?なんで?」と、思わず指差せば、「そんな面白そうなこと、呼んでよ!」と春は怒ったように言った。


 倫太郎は、図書館で会った時と全く同じ格好であることを思い出し、少し恥ずかしく感じたが、春はそんなことを全く気にした様子もない。



「連絡先、交換したじゃん!」

「そうだけど、なんで?なんで今日の事、知ってんの。」



 聞きたいのはそこだ。すると、春の横にいる神田が、パチンと音をさせて顔の前で手を合わせ、頭を下げた。



「すまん!昨日、木嶋が学校に来たこと教えたくて、連絡したのは俺だ!」



 下げられた神田の後頭部を見ながら、倫太郎はなるほどと思っていた。春が、平日にも関わらず図書館にいた倫太郎について何も聞かなかったこと。倫太郎が学校に行っていないことを、神田から聞いて知っていたのかもしれない。



「まあ、良いけど。」



 倫太郎が困ったように笑えば、神田はがばっと顔を上げて、少し申し訳なさそうに笑った。

 クロが倫太郎の耳元で呆れたように溜息をつくと、「クロちゃん、またよろしくね。」と春がその手を伸ばし、バシリと音がするほどの猫パンチをくらった。


 その時だ。


 駅のロータリーに右折して入って来た黒いワンボックスカーが、倫太郎達に近づいてきた。ゆっくりと、傍に停まったそれの向こう側、運転席の扉が開き、「おはようございます。」と顔を出したのは菅原だった。


 学校以外で先生に会うなんてことは、倫太郎にとって初めての経験だった。はっきり言って、普通にダウンのベストを来た菅原なんて、違和感でしかない。

 車を降りて、こちら側にやってきた菅原は、少し腰を折って「おはようございます。」とギンに頭を下げた。



「あはは。おはよう。」



 ギンが、楽しそうに笑って言った。


 菅原の首元で、マツ君がピョンピョンと跳ねている。どうやら、消えずに済んだらしい。それでもその姿は、もうずいぶんと小さくなってしまった。

 菅原の顔色は、黒縁眼鏡越しではあるが、幾分かましなように見えた。何も解決してはいないが、彼の中で思うところでもあったのだろうか。


 菅原が、後部座席のドアの取っ手に触れると、ピーッという音がして、ガーッと後部座席のスライドドアが開く。すると、そこからひょっこりと女の子が顔を出した。



「あー!猫ちゃん!」



 全く想定していなかった子供の登場に、場が固まった。くりくりの眼をキラキラとさせて、クロを指差した彼女は、「まずはちゃんと挨拶しなさい!」と菅原に怒られて、「おはよーございまーす!」と元気に挨拶をした。



「娘なんだ。今日、どうしても一緒に行くって聞かなくて。」



 菅原が、申し訳なさそうに頭をかきながら言った。

 倫太郎の肩の上で、クロがひどく面倒くさそうに溜息をつく。子供、苦手そうだもんなと倫太郎が笑えば、尻尾が倫太郎の耳に当たった。

 ギンも一瞬怯んだようだったが、彼女の視線がクロばかりに向けられていることに、どうやら安堵したらしい。見開かれたはずの銀色の瞳が、今ではニヤリと笑った口元と共に細められている。


 身長は、ギンと同じぐらいだろうか。彼女は車を降りて「猫ちゃん、お名前何て言うの?」と、倫太郎を見上げる。すると、倫太郎が答えるより先に、春が「クロよ。」と答えた。

 クロの尻尾の当たりが強くなり、少し痛い。

「猫の尻尾は口ほどにものを言う。」っていうもんな。————なんてことを倫太郎が考えれば、バシィッと倫太郎の顔の正面にその尻尾が叩きつけられた。



「あなたのお名前は?何て言うの?」



 春が腰を折って、彼女に目線を会わせると、ニコリと笑った彼女は「さき。」と言った。



「さきちゃん!よろしくね!」



 春が笑って、さきちゃんの頭を撫でた。さきちゃんは、えへへと照れくさそうに笑って、撫でられた頭を両手で押さえた。


 どうやらかなりの大所帯で行くことになったようだと、倫太郎が苦笑すれば、「全く面倒なことだ。」と、クロが耳元で呟いた。




 神田が助手席に乗り、さきちゃんの隣に春が座った。一番後ろ、三列目のシートに倫太郎はギンと並んで座る。ギンは、その窓越しに外を眺めたり、シートを触ったりしながら、「本当に人間の考えることは面白いな!」と少し興奮しているようだった。それは、見た目通りの子供らしいそれだ。


 扉が閉まり、ウィーンという機械音をさせて先生の車が走り出す。それと共に動き出した景色を、倫太郎は不思議な気持ちで眺めていた。数日前まで何の景色の変化も無かった色の無い日常が、急に色づき始めたようなそんな眩しさ。



「さきちゃんは、何年生なの?」

「二年生。」



 そんな会話が、前の座席から聞こえてくる。神田も社会科の係をしているせいか、菅原とは普段からよくしゃべっているのかもしれない。助手席で、何やら話しかけているようだ。

 赤信号で車が停まる。菅原が、右ウィンカーを出した音がする。



「昨日ね、パパがジュウシマツを連れて帰って来たの。」



 さきちゃんの唐突に始められた説明を、春は「へぇー。」と楽しそうに聞いている。童話作家になりたいというだけあって、子供の扱いには慣れているのかもしれない。

 信号が青になり、再び車が動き出す。右に曲がると同時に、景色もぐるりとまわる。



「でもね、ママには内緒なんだって。」

「へぇ。なんでだろうねぇ。」



 相変わらず呑気な春の声。ピクニックにでも行くような、そんな穏やかな空気。精霊と、得体の知れない子供を乗せているにも関わらず、その空間にはひどくゆったりとした時間が流れていく。

 いくつかの信号を超えて、春に会った役所を左手に見ながら車は進んでいく。自転車ではそこそこかかる距離も、車ならあっという間だ。


 PCとベッドしか無いような部屋を出て、怒涛の勢いで世界が広がっていく。自信の無かった背中が、少しだけ伸びた気がする。



「ギン、ありがとう。」



 思わず出たそんな言葉に、倫太郎自身が驚いた。クロが肩の上でゆっくりと立ち上がり、倫太郎の首にまとわりついた。倫太郎に視線を向けたギンは、目を細めてふっと笑うと、再び外にその銀色の瞳を向けた。






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