羅刹のホーム
オダ 暁
羅刹のホーム
どこから話したら良いだろう。私の生まれ育った生家というには、とにかく幸福という匂いはどこにも醸さない場所だった。物心ついた時から両親、兄、姉らとは円満とは真逆な人間関係で構築されていたと思う。
だからテレビなんかで見る平和なホームドラマは、演出された理想郷だと信じていた。転職を繰り返す父親は、飲む打つ買うの三拍子の男性で母親とは喧嘩が絶えなかったが、私が中学生の時、母親の首を絞めるという物凄い暴力をふるった挙句、ぷいと家を飛び出し、そのまま現在もなお行方不明だ。もしかしたら計画的だったのかもしれない。
それからは母親は清掃業やスーパーで働いた。だが帰宅したら毎日子供たちに不平不満のオンパレード。どこそこの旦那さんはエリートで裕福な暮らし、たいした奥さんに見えないのにずるい、のいうような話題が多かった。確かに若いころの母親は美人だったらしい。一目ぼれした父親がブランドバッグをプレゼントして付き合いがはじまったというから、母親のほうも、まんざらではなかったようだ。父親は当初、小さな信金に勤めていた。何が原因か急にやめてしまい、それからは転職人生が始まった。それと同時に飲む打つ買うの達人になっていった。あとで考えると、母親のキーキー声から逃げたいから毎日帰りが午前様になっていったのだと思う。当然、借金は雪だるま式に増え、父親の親に清算してもらったこともあった。我が家は本当に貧乏だった、そしてひたすら暗黒だった。
五つ上の姉は兄弟で一番優等生で、成績とか素行とか至極まともだった。兄は私と年子で妙な性癖があった。きれいな顔だちをして、性格も素直で勝気な姉よりもぜんぜん穏やか。優しく配慮もある彼を私は愛していた。母親はガミガミと何かしら苦情を子供たちに垂れ流しした、といっても殆ど兄と私にだが。昔、父がいた頃から母は周囲の人間を暗くするキャラクターだった。生まれつきの性格もあるだろうが、環境も拍車をかけていた。母親の娘時代、年の離れた妹を両親が盲愛して放し飼いのような暮らしだったらしい。母の父への言葉や態度は、私の大嫌いな陰険で粘着質な女教師と似ており、それが派手な夫婦喧嘩を誘発していたと思う。
兄の性癖というのは、いわゆるトランスジェンダーというやつだ。性癖なんて言うのは語弊があるかもしれない。彼は男の身体をして生まれたが心は紛れもなく女だ、仲の良かった私には解る。彼は隠れて女装をしたり化粧をして好きな男に愛されようと頑張ったが、その努力は嫌悪され変態扱いされるだけだった。周りの人間で彼の決心が本気と理解できる人は皆無だった、妹である私は彼の気持ちに歩み寄りはできたが、できるなら普通の女性を好きになれる、ありきたりな男性でいて欲しかった。時代もトランスジェンダーがまだ認知途上にある前近代的な風潮が主流なのも兄を生きにくくしたと後になって痛感する。
ともかくそういう家族関係だからトラブルは日常茶飯事だった。私はというと、成績も素行もダメで、父が出奔した中学性のころから髪を染め、授業ボイコットやうざったい校則は平気で破っていた。男女交際も早熟で、中三の夏休みに先輩と初体験を済ませるといきなり大胆になり、男が切れることはなく時には二股三股も面白がってしていた。家や学校がつまらないから、ストレスを紛らわす刺激を求めてたんだと思う。だが、そんな私の悪行もついには罰を受ける日がやってくる。言い寄ってくる男たちを手玉に取り、全員と深い付き合いを平気でする尻軽という噂が高校生の時には定着していた。かなり尾ひれがついていたが。おまけに兄は女のなりをして男に言い寄るオカマ野郎、妹は貞操観念のないクソビッチと揶揄される始末。そんなダメ兄弟のなか姉だけは高校卒業後、公務員試験に合格して家を出て一人暮らしを始めた。長年の念願だったのだろう、実家と離れるのは。そしてヒステリックな母親と兄と私が家に取り残されるのだが、それは更なる不幸の幕開けだった。そしてその不幸が起きる季節ははいつも夏だった。父が家出した時も、姉が未練も残さず家族を捨てて一人暮らしのアパートに移ってしまった時も、そして兄が命を絶った時も。
うちの平屋にはクーラーが無い。昔からだ。節約のためか冷風が苦手な母親が原因かわからないが、とにかく団扇と扇風機だけだから猛暑の間はたいへんだった。子供らの誰かがクーラーを買おうと言っても、母はけっして首を縦に振らなかった。
「ぜいたく品だから要りません、扇風機で十分です」
電気代も夜は早くから寝て、なるべく電気を灯さず、ガス代や電話代も最低限に抑えていた記憶がある。つましい生活を越えて吝嗇な生活だ。ギスギスとした言い争いが絶えぬクーラーもなく生活維持費の諸々に制限のある、居心地の悪い家。兄はとうに高校を中退して家から外に出なくなっていた。原因は失恋だ。先輩の陸上部の男子学生に恋をして、打ち明けたが、もちろんうまくいくはずもなく、酷くののしられて学校にも行かなくなった。自分の部屋にこもりきりになり魂が抜けたようになってしまった。母親はそんな傷心でふさぎこんでる彼に説教をするが馬耳東風で、ついにキレ罵声を浴びせてしまう。
「男の人に告白するなんて恥ずかしい…あなたは男なのよ。うちの唯一の男の子なのにオカマだったなんて…世間様に合わす顔がないわ。尻軽も最悪だけどもっともっとあり得ない。まともなお姉さんは家にいないし、連絡もしてこないし、母さんの人生は旦那にも子供にも裏切られてしまったわ(えんえんと泣き声が続く)」
私とたぶん兄にとっても家は悪魔か鬼の棲む温床だった。母親のヒステリックな声を聞いていると、正論であろうと思い切り心にダメージを刻まれる。それを毎日のように聞かされ、ついに兄は大量に風邪薬を飲んで亡くなった。真夏の夜中に人気のない、近くの山の中腹に登っていき太い大樹にもたれかかって。遺書は、次は女に生まれます、と走り書きのメモをジーパンのポケットに忍ばせて。兄の遺体と対面して、母親は、この親不孝者と大声で泣いた。最後にはむせび泣きになっていつまでもやまなかった。
私はついに母親と二人きりに取り残された。地獄だ。
母親の言葉は、ヒステリックな罵声か延々と止まらないむせび泣き。飴と鞭ならぬ鞭と鞭。
どっちも勘弁だ。気が狂いそうになる。
父親と姉は家を出た。兄はこの世からリタイアしてしまった。
「おまえは私を置いて何処にも行かないね。母さんの一生は何だったんだろう、辛い辛い辛い。一生懸命お前たちを育ててきたのに、父さんも他の女の人と暮らしてるんだよ。離婚届なんか持ってきて…あ、お前は知らなかったね。私のパート先まで来たんだ。古い一部屋しかないアパートで住んでるってさ。クーラーなんてないし風呂もトイレの共同だって。でも女が朗らかで笑顔が菩薩様みたいだって嬉しそうに言って、ギャンブルもスナック通いもきれいさっぱりやめたって豪語してたけど今はどうだかね。何回も来てうるさかったよ、離婚なんて絶対してやらないよ。あ、立て替えた借金返してきてさ、悪かったって謝ったよ…でも離婚はしてやらない。絶対してやらないよ」
全然知らなかった。
父さん…可哀想な父さん、母さんから逃げたんだね。一緒にいる女の人と籍入れたいけど母さんは執念でも離婚しないみたいだよ。
どこに住んでも快適な涼しい夏はないね。トイレも風呂も共同なんて、うちよりヒドイじゃん!でも、母さんのさみだれ小言だけはないんだ。刃みたいな、氷の欠片みたいな言葉は聞かなくていいんだ。母さんの首を絞めた時、いっそ殺したくなるようなこと言われたのかな?これでは犯罪者になってしまうと思い、家出したんだ・・・
でも今はどんな状況なんだろうか?そういえば兄貴の葬式は母さん、密葬にして周りにはあとで知らせてたな。オカマで男に失恋して自殺するなんて世間様に情けないと言って。父さんには知らせたのかな?
いやもう、どうでもいいか。この平屋の、この家は。
たとえクーラーをつけたとしても、もっと豪華に改築しようとも、日当たりが良くなって景観が素敵になっても。根本的に結局は変わらない。
母さんのヒステリックな罵声やすすり泣きがある限り、心はだんだんと追い詰められすさんでいく。正論に負けてしまう。癒しが欲しい、愛する人と暮らしたい。兄さんと暮らしていた時は、幸せな空気の香りがまだあった。でも今は・・・
不幸な匂いに包まれた、この家を出よう!今度こそ穏やかに暮らすんだ。どんなに西日の強いボロ屋であろうと構わない。他人には理解不能でも。
ひっきりなしの怒鳴り声と恨み節のない世界。身体や言葉の暴力がない、心が生き返る、陽だまりのような温かい家。今は理想だけどいつか・・・
親不孝は百も承知だけれど人でなしと後ろ指さされても、それが私のいい家で、スィートホームだから。
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