きつね、飛ぶ

モトヤス・ナヲ

第1話

 助手の学生のひとりから花束を渡された

「先生おめでとうございます」

物理学賞授賞が知らされたの晩、大学の特設会場での記者会見のあと、研究室にもどってくると、学生の手によってサプライズパーテイの用意がされていた。彼は照れくさそうに花束をうけとると、あらためて一同をみわたしながら言った。

「みなさんのおかげでこの賞をとることができました。ほんとうにありがとう」

 学生の手によってシャンパンが抜かれ、彼の乾杯の挨拶のあと、パーティは和やかなムードで進行し、他の同僚教授たちもつぎつぎと祝服に訪れたりして、ドアあたりはちょっとした人だかりができていた。

「三十年間、辛抱した甲斐があったわね。とくにあなたの場合、苦労がおおかったものね」

 ポスドク時代に同じ研究所で働いていた同期の教授がいった。彼が行ってきた研究は基礎研究のなかでももっとも地味なものであり、例えばそれは彼女のやっている人工知能の分野の研究のように、大学本部や企業受けするようなものでもなかった。

「だから、こうしていると夢みたいだ。受賞はだれかのドッキリじゃないかって、いまだにおもってしまう自分がいる」

 彼のしみじみとした感想に、彼女は素直に笑いながら言った。

「ははは、だったら、いまのうちに余計に楽しんでおきなさいよ。一生に一度あるかないかの達成感なんだから」

「そりゃ、そうだ」

 彼は笑いながらそれに答えると、彼女と紙コップをあわせ、ふたたびあたりを見渡しながらその「達成感」を心ゆくまで味わおうとした。そして、シャンパンを一口、口に含むと、

「一生に一度の達成感か...」

 と独り言のようにつぶやいた。その時ふと遠い昔の、彼がまだ子供の頃の記憶の層から、心のスクリーンに投影するように、これとそっくりな幸福の既知感が噴き出してきた。


そうあれはいつのことだったか ...


 その時彼はもう何ヶ月も自転車を練習してきていた。そして数十メートルくらいは走れるようになっていたが、それから先がいつもダメだった。初めの快調でも最後に必ず蛇行を始め、いつも力無く倒れてしまう。彼は母親にいった。

「ダメだよ、最後にいつも怖くなっちゃうんだ」

「どうしてかしら?出だしはうまく乗れてるのに」

 真っ赤な夕日が電信柱を影に変える時間帯だった。彼らは狭い空き地に積まれた土管の間で練習していた。町の明かりがつきはじめ、あちこちから夕餉の匂いが漂ってきた。彼は再びトライした。そして再び転んだ。一言で言えば転ぶのが癖になっていた。母親は、彼をゆっくりと助け起こすと、膝や肘についた土を払い退けてあげながら笑顔で言った。

「もう、遅いから、明日にしたら?」

「ううん、もう少しだけ」

 彼は自転車を構え、前をきっと見つめる。その背中を母親が優しく押してやる。自転車が走り始め、そして転倒、それを繰り返した。

「僕、もうダメなのかな?」

「ちょっと待って、もう一度だけ走ってみて。

 彼は再び走り、そして再び転んだ。母親はそこに小走りに走って来た。

「お母さん、あなたがどうして転ぶのか、分かったわ!」

「えっ、どうしてなの?」

「あなた、初めは顔を上げて走っているのに、途中からだんだん下を向いて、最後は足元ばかり見てる。それで自転車がふらついて倒れてしまうのよ」

「そうかな」

「もう一度、やってみて」

 彼は走り出した。確かにそうだった。前を見て走っていても、やがて足元が気になり始め、それで下を見ていた。彼はまた転んだ。もう二、三回トライしたが結果は同じだった。自信のなさがそうさせていて、それが心理的な原因である以上、なかなかに厄介だった。

「だめだ、分かっているんだけど、怖くてどうしても下を見ちゃうよ」

「そうねぇ、目を瞑って走ってみたら?」

「無茶言わないでよ!」

「危ないもんね」

 そう言った時彼女の心に何か閃くものがあった。彼女はすっかり夜になった広場を見渡した。

「ほら広場の角、あそこに街灯が灯っているのが見える?」

「うん」

「お母さん、あの街灯の下で待ってるから、あなたはそこまで走ってくるのよ」

「でも、あんなに遠くまで...。途中で転んじゃうよ」

「ううん、転ばない。いい、よく聞いて。あなたはもう他は何も見ないで、お母さんの目だけを見るのよ」

「お母さんの目だけを?」

「そう、やってみて」

 そう言い残すと母親はその街灯のところまで走っていき、地面にできた光の輪の中に入ると彼の方を振り返った。そして手を上げて合図をした。30メートルほどの距離だったが彼には途方もなく遠く思えた。彼は母親を凝視し、自転車を漕ぎ出した。そしてすぐにいつもの不安が彼の心を鷲掴みにした。

「...下をみないで、お母さんだけをみる」

 彼はそれを呪文のように繰り返した。母親が遠くスポットライトの下に立っているように見えた。彼は彼女の目だけをみて必死で漕いだ。

「...下をみないで、お母さんだけを見る」

 そして、ついにその光の輪に吸い込まれるようにして、母親にたどり着いた。

「すごい、やればできるじゃない!」

 彼は自転車に跨ったままで、茫然自失の状態でそこに立ち尽くしていた。怒涛のような興奮が彼を包んでいた。それは人生で初めて味わう達成感だった。

「できた...」

「やったわね!」

 少年は今自分が成し遂げたことがまるで夢のように飛んでいってしまいそうで、もう一度聞いた。

「僕、本当にできたよね」

「ええ、お母さん、ちゃんと見てた」

「もう、一回やってもいい?」

「いいわよ、お母さん、いくらでも付き合うわ」

 それから、二人は夜の広場で、同じことを何度も繰り返した。そしてその晩彼はついに自転車を克服したのだった。


「ただいま」

 二人は自宅の引き戸を開けた。少年は玄関の上がり框を上がると柱の電灯のスイッチをつけた。小さな家に明かりが灯った。お母さん、と言いかけて、少年が振り返ると、玄関の三和土に母親が、サンダルを脱ごうともせず立ち尽くしていた。母親が言った。

「...ごめんなさい」

「お母さん、一体、どうしたの」

 彼が心配そうに聞くと、母親は小さな声で答えた。

「晩御飯の支度してなかった。お母さん、こんなに遅くなると思ってなかったから」

「大丈夫だよ。どこか食べに行こうよ」

「こんな時間にどこも空いてないわよ」

 それから母親は台所に飛び込むと、何かすぐ食べれるものを探して家宅捜査を始めた。食材はいくつも見つかるのに、すぐに食べれそうなものはなかなか見つからなかった。彼もすぐに捜索に加わった。彼は袋戸の奥に仕舞い込んである紙袋を見つけると、食器棚の前に座り込んで中を探している母親のところに持っていって尋ねた。

「お母さん、これなんだろう」

 母親は振り返ってそれを手に取ると、

「何かしら、誰かからの貰い物かしら」

 少年が袋を開けると中からカップ麺が出てきた。少年は母親にそれを見せた。

「思い出したわ!先月、新製品だって八百屋さんでもらったのよ!」

「へぇ、赤いきつねだって。おかしな名前だね。お母さん、これ食べようよ」

「いいの?」

「お母さん、早く、お湯沸かしてよ。僕、お腹がぺこぺこだよ」

 その夜は、二人でちゃぶ台を挟んでの幸福な晩餐になった。少年は、自転車に乗れた時の感動を、まるで壊れたレコードのように繰り返し語り、母親はそんな息子を頼もしそうに眺めた。

「すごいなあ。本物のお揚げが入っている」

「偉かったわね。あなたは今日、空を飛べたのよ。ご褒美に、お母さんのお揚げ、あげるわ」

 彼ははちきれんばかりの笑顔で母親を見つめた。彼は目も眩むような幸福の中にいた...


「先生?」

 彼は我に戻った。パーティの喧騒が再び彼を包んだ。目の前で先ほど花束をくれた学生と先ほどまで喋っていた同僚教授が、心配そうに彼を覗き込んでいる。

「先生、大丈夫ですか?」

「ちょっと、どうしたのよ。受賞があまりに嬉しくて、気でも失っていたの?」

 二人が声を揃えて言った。彼女たち後ろにも、彼を見ている人垣ができていた。彼はそれを幸福の笑顔で見渡すとこういった。

「誰か、生協で赤いきつねを箱ごと買ってきてくれないか。今日は心から祝おう。みんなももし良かったら、わたしに付き合ってほしい」

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