異世界交響曲

@Heineine

第1話

「〜〜~~!」


 言葉にならない声が口の端から漏れる。


 ちらっと周りを見渡す。隣の席の不良少年、小西は小春日和の麗かな日差しによだれを垂らして、気持ち悪い笑みを浮かべてやがる。


――気付いてない。ひとまず隣はセーフだ。

 

 今度はゆっくりクラス全体を見回す。

 教室前側の入り口すぐの席の女子、鷹岡がこちらを睨んでいる。


「くそ、地獄耳女め」

 

 入口横のお前の席から、窓際最後部の後ろの席まで、構図としては対蹠点に当たるというのに、どんな聴力してんだ、あの女。


――き・こ・え・て・る・わ・よ


 一文字ずつ区切って、無言で口の形を作ってるのが見えた。凝視した唇がグロスでプルンとしてて、無駄に魅力的なのが腹立つ。


「ふんっ……」


 こちらがジトッとした目で睨み返すと、鷹岡は肩を大袈裟に動かし嘆息したあと、板書きをノートに写す作業に戻っていった。


 1-Aクラスの教室は今日も平和だ。

 午前ラストの授業で、古典の月守先生は源氏物語の歌の原文と意味を、黒板でチョークに記していく。

 机に頬杖を突き、校庭を見れば、盛りを過ぎた桜がまだあんなにも綺麗で……


「〜〜んっ!!」


 教室で誰かが呻いた。訂正、正直に言おう。

 呻いたのは俺だ。


 激烈な痒み!!

 机の下でぐっと握っていた手のひらが、どうしようもなくムズムズする。

 それはもう、つい変な声が出ちゃうくらいに。


――痒かゆかゆかゆかゆかゆっ!


 心で叫ぶ。痒さのピークはものの5秒ぐらいで過ぎたのだが、額に変な汗が流れる。


「あの、二宮くん、具合でも悪いんですか……?」


 机の下で握りしめた手のひらから、ゆっくり視線を教室内に上げる。

 先生、次いでクラスの大半の生徒が俺を見ていた。隣で規則正しく寝息を立てているようなものを除き、9割の生徒が。


「……っ!なんでもありませ――」

「――先生、二宮くんは、平安の夜這いの文化に興奮してるみたいです」


 教科書の挿絵に指をさして鷹岡が通る声で告げる。

 指が示しているのは、ごく普通の平安絵巻の俯瞰図だ。


「ちょっ! おまっ! 別にそれどこもエロくないからっ!」


 立ち上がって抗議した。

 いやな奴め。事実の真贋よりも、必要な時に必要な注目を集めるだけの言葉のインパクトと影響だけを重視してやがる。

 ろくな大人にならないぞあいつ。


「……まぁ! 二宮くん、そうだったの!?」

 そのまま頬に手を当てた先生が「困っちゃったわ」とボソッともらしているのが聞こえた。

 教壇で教科書の挿絵に目を落としているーーいや、だからそれエロくないですよ!?


「二宮くん、後で先生のところに来てちょうだいね」

「……はい」


 怒ってはいないけど何か意を決したらしい月守先生の言葉に、とりあえず頷くことで、この場は収まった。


「――ちぇっ」


 鷹岡の方は見ないように、窓外に向かって改めて頬杖を突いた。

 あの嗜虐心に満ちた女は、どうせせほくそ笑んでいるに違いない。

――無駄に美人だからって調子乗りやがって。


 頬杖を突いている手とは逆の方の手。

 かゆみも幾許収まってきた左手の手のひらをゆっくり開く。


 手のひらにじんわり浮かび上がって見える青黒いインク――どこの国の言葉で、何の意味を持った記号なのか分からない文字――を見る。


 先程の至って不要なゴタゴタのせいで、額や背中を伝った冷や汗の例に漏れず、手汗もびっちり掻きまくっていた。


 それでもインクは少しも滲んではおらず、ブレザーから取り出したポケットティッシュで拭いてみても、びくともしなかった。


 手のひらの文字を、右手の人差し指でそっとなぞった。


「――*********!」


 ぼんやり視界に、いや網膜にというべきか、今いる教室とは関係のない見知らぬ調度が垣間見え、また女性らしいーー髪型から類推するところのーーシルエットが浮かぶ。


 そのシルエットは歌うように喋る。

 周波数の合っていないラジオのように、淡白なノイズの中に、途切れ途切れに我知らぬ言葉と記号で。

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