サラダボール

秋津 心

第1話 

「隣の松本さん、今日ごみ捨ての時、ちらっと見たら新しいブリジストンの電動自転車こいでて。ものすごいスピードで私の前、通り過ぎていったの。お金あるのね、うちと違って」

これから、家族のために働く父の前で、平然とそんなことを言うのだから恐ろしい。悪気のない、楽しそうな声だ。

今日も母は悪口をしゃべる。

 朝七時。僕たち家族は1階の長テーブルに集まる。テーブルの上には、緑と赤で彩られた野菜と湯気を立てるコンポタージュ。耳の無いパン。この前、母が長野のお土産で買ってきた紫色のたくあん。階段を降りた床が冷たくて、足の裏と床が張り付く。

「このCMに出ている芸人に声をかけられたんよ。一緒にテレビにでませんか?って。やっぱ俺って顔いいのかな」

 朝なのに、なぜそんなに表情筋が動くのだろうか。はにかみながら、平然と自慢をしてくる兄。

嘘だ。

 いつからか、兄は嘘をつくようになった。財布の中身から、好きな映画まで、なんでもごまかすようになった。もう病気である。

 今日も兄は嘘をつく。

「・・・」

 つまらなそうに相槌を打つのは父。黒縁眼鏡をコーンスープの煙で曇らせていても決して、ぬぐおうとはしない。目線も片手に持つ新聞に吸い込まれている。「アフリカで正体不明の伝染病」の見出し。

 やっぱり会話に参加しようともしない。まともに声を聴いたのはいつだったか。死んだような口。

 今日も父はしゃべらない。

 妹の方を見ると、置かれている食器の数が僕らと比べて明らかに少ない。もったいないから、いつの日からか、母が少なくしたのだ。

「あんた、食べなさい!食べないとクラスの小岩くんみたいになっちゃうよ」

 それでも妹は、並べられた野菜とコーンスープと耳なしのパンをただ見ているだけ。寒いのか手をポッケにツッコませながらただ座っている。

 摂食障害というものだろうか。しかし、不思議なことに学校の給食は食べるのだという。

「やだ」

 小学生とは思えない、低い声でそうつぶやく。どんどん体が小さくなる妹からは想像できない声だ。

 今日も妹は食べない。

 その返事を聞いて、母は肩を震わせる。

「いい加減にしなさい」

 きた、言い合いが始まった。我が家の毎朝好例だ。

父は相変わらず新聞を読み、兄はさっきまでの笑顔を残しながら、なぜかニヤニヤしている。何かいい嘘でも思いついたのだろうか。

「うるさい」

 また、妹は言う。

 良くしゃべる兄は母に似て、静かな妹は父に似ている。でも母の悪い所を妹は継いでいる。

「あーもう知らない、今度からあんたの分の朝食作らないから」

 毎回のことだから、誰も口を出さない。

「作ってもらわなくて結構」

 悪口を言う母、嘘をつく兄、しゃべらない父、食べない妹。

 家族が嫌いな僕。

 ふと、テーブルの真ん中にあったサラダボールを取ろうと手を伸ばしたとき、自分に注がれていたコップを倒してしまった。

 血の気が引くような感覚を覚えた。頭が真っ白になる。

 同時に、白い液体がこぼれて、みるみるテーブルに広がっていく。そしてすごいスピードでテーブルを満たしてしまった。

「なにやってるの」

「あーあ」

「汚い」

 色々な罵声が僕に届く。

やってしまった。何をしていいか分からなくなり、ただ呆然とする。

「やっぱり、あなたが家族で一番の出来損ない」

そう言われた、気がした。涙が出そうになった。


 しかし、いつの間にか、母が台ふきを持ってきてくれた。父は、持っていた新聞を使って、無言でテーブルからこぼれないようにせき止めてくれた。新聞はもう読めないほどにぐしょぐしょになっている。兄は、下にあった僕の鞄をどかしてくれた。妹は、タオルを僕にくれた。

「はい、タオル」

 僕は、なんとなく、もらった白いタオルに顔をうずめた。涙を隠すためかもしれない。ふかふかしていた。

そして、タオルの匂いを勢いよく吸い込んだ。そこには見慣れた匂いが確かにあった。


 

 

 




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サラダボール 秋津 心 @Kaak931607

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