第19話 西苑の『綾姫』は人気者
「……存じ上げませんの……今は……」
変な気分だ。
記憶がないということは、ここにいる式部綾は偽物で、昔西苑にいた式部綾は、今も北米のどこかで、大親友だった美耶姫と、双子のように、暮らしているのだろうか?
――いいえ、でも、私は、妹尾美耶というフルネームを、憶えていた……
誰も彼女の名字を口にしてはいないのに、最初から想い浮かべられた。
――親友を、何故、忘れてしまったのかしら……
思うが、彼女――美耶姫のことを思いだそうとすると、綾は、エマのことを思いだそうとするよりもっと漠然とした、不安な気分になった。
こういうとき、多分、自分は、思い出したくないのだ。
自分の中には、そうして思い出したくないことを巧妙に避ける、もっと心が弱くて正直な、もう一人の自分がいる。それは既にお馴染みの感覚だった。
こういうときは、無理に思い出さない方がいい。
やはり、目をつむって、回りをごまかしごまかし、自分の中の混乱の時期が通り過ぎるのを待つしかないのだろう……。
綾は、はしゃいでいる少女達に知られないように、そっと、細く長くため息をついた。
「なんや、えらい人気者やないどすか」
『綾姫』人気で、廊下に押しやられ、マーガレットと一緒にその様子を覗いていたリリーが、つぶやいた。
「リリー、泣きました? 目が……」
「ほっときなはれ。それより、そうや、あの西苑の二年睡蓮のクラス委員と、話はできたんどすか?」
「一応、お伺いはしたのですけれど……」
マーガレットは、少し表情を曇らせた。
「なんどす?」
「悪い噂じゃありませんわ。アヤヒメといったら、西苑の上級生下級生を問わず、広く知られていたみたいですの。初等部では日本舞踊部の部長で、お母様が師範で学院に出入りしてらしたこともあって、相当な腕前を披露。茶道部と華道部は、ほら、アヤ、自分で師範のお免状を持っているでしょう? あれ、初等部のころから持ってたらしいですわ」
「ええっ?!」
「それで、茶・華道部にも、顧問の先生の補佐ということなら部活掛け持ち禁止の校則には触れないからと、顔を出していたのですって」
「生意気そうなお子やな……あまりにアヤらしすぎる……」
「あら、そのころは、とっても素直で、愛らしくって、言葉少なで控えめな、ミニチュア大和撫子だったそうですわよ」
「大口開けてけたけた
「思うに、それは、中二になって東苑で誰かさんと知り合ってからの性格なんじゃないかと……」
「いいえ! ちがいます!! あの子は、もともとああいう子や!! 生意気でこましゃっくれとんのが本領で、うちら以外の人間の前ではネコかぶっとうだけどす!!」
「まあ……賛成しますけど」
マーガレットは、舌をちょっと出して笑った。
「からかいはったな? まあええわ。――で? 西苑におったことは、自分ではっきり言うとったんや、それを指摘されたんで混乱したとは思えへん。アヤが真っ青になったんは、その……美耶、ゆう名や」
「さすがはリリー、よく気がつかれましたわね。……本名は、妹尾美耶様とおっしゃったそうですわ。み・や、あ・や――音が似ているでしょう? 姿形も背格好も似ていて、それはもう日本人形ふたーっつ、って様子で、全苑中のマスコットのように愛されていたらしいですわ。中一のときなどは、同じクラスで、ただ……。綾と同じ時期に転校して、いなくなった。そしてね、これからが問題なんですけど、以来、彼女の消息を聞いた方が、いないのですって」
「なんなんやろな、それは……」
リリーは、腕組みをして考え込む。
マーガレットは、窓際の空いていた席に座らされて、マーガレットの知らない昔の友達に囲まれ、意外に幸せそうに笑っている綾を見て、微笑を漏らしていた。
「まあ、わたくしは、アヤがお元気そうだから、よかったと思うのですけど。それより、リリー? 会議のとき、ヘルフェリッヒ様が……。気付いてました?」
「ああ、あれな」
多くの生徒の前で、綾がそこにいると指し示して知らせた、エマの視線。
と。
リリーは口を開こうとして、すぐに閉じた。
廊下の向こうからすたすたとやってくる長身。男のような足裁き。大股で近付いてくる特徴的な歩き方で、すぐ分かる。人を捜している様子と見て、
「沙記!!」
リリーが呼ぶと、ポニーテールの少女はまっすぐにやってきた。
「リリー隊長!!」
手には何か、大ざっぱに畳んだノート大の紙片を持っていた。ぐいぐいとリリーを引っ張って、『綾姫』の姿をひとめ見ようと押し掛けている生徒の群から連れ出し、廊下の隅へ行く。
「なんやあんた、あんたの『綾様』が人に取られてしもてるけど、ええのどすか?」
リリーが、もともとたれ目気味の目尻をさげて笑い、からかったが、
「いいんス、綾様はみんなの人気者で当然なんスから。それよりホラホラ!」
「なんどす、これは」
「東苑の選挙管理委員長から、ナイショで草稿貰ってきたんッス」
マーガレットが横からちょっと見て、
「『反対派 総長 選挙 候補者 氏名 一覧表』?」
「今、ちゃんとしたやつを印刷中らしいです」
「東苑高等部三年
「あ、リリー隊長もそうなんですけど……」
沙記が指差した部分を見て、マーガレットとリリーは顔を見合わせた。
「エマはんが会議場であれをやらはったせいどすか?」
「というか、わたくし達の知らなかった、あの子の――綾姫の西苑での知名度を考えると当然というか……」
「いいや!! あの
「つまり、リリーは、ヘルフェリッヒ様が、最初から賛成派に立って綾と直接対決をしようと目論んでいたと、おっしゃりたいの……?」
エマの姿は、リリーもマーガレットも、バンケットホールでの会議以来、見かけていなかった。あれだけ目立つエマの姿は今、見当たらないし、噂も聞かない。西苑にいないなら、東苑に行ったに決まっている。つまり、賛成派だ。
「あのお人も元は東苑におらはったんやし、東苑・西苑ひっくるめての人気となったら自信あったんや……で、同じ立場の綾を……違いますやろか?」
「でも、へルフェリッヒ様が今さら綾と対立したがる理由なんて、ありますかしら?」
「あの、ねーさん達、何の話してんですか?」
首を捻っている沙記。
マーガレットとリリーは、もう一度、教室の方へ目をやった。
「危険や……あの女ギツネ、何考えとるんやろ」
と、マーガレットはふっと吹き出しそうになって、口元に上品に手をやった。くっくっと喉元で笑いをこらえながら、
「リリーがそこまで好敵手扱いする方も珍しいわね。認めていらっしゃるのねえ……」
リリーはその平和そうなマーガレットの微笑にげんなりし、感想を述べた。
「あんたらしい言い方や、マーガレット」
人だかりがしていてよく見えない、綾の姿。
「大丈夫かいな……」
「リリー。大丈夫ですわよ、そのために、わたくし達がいるんですもの。そうよね、サキ?」
「だから、なんのことですか?!」
おっとり微笑する淡い灰紫の瞳に、沙記は、からかわれっぱなしなのが腑に落ちず、ぶすっとなった。
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