#36 おかあさん
しばらく進むと、冷たい空気が肌を撫でた。薄灰色の煙に肺が悲鳴を上げる。ごほごほと咳き込むシロに反応してか、コトニが足を止めた。
「ムツキちゃん、ちょっと休もう? シロちゃんが限界だよ」
「……ここまで来れただけ及第点か。うん、いいッスよ、休もう」
胸が張り裂けそうだった。喉の奥に絡まる吐息が呼吸を妨げる。
すぐにでも座ってしまいたい。しかし座り込めば、もう二度と立ち上がることはできないだろう。今はただ、コトニに掴まって立っているだけで精一杯だった。
こつり。硬い音が、した。すぐさま体勢を整えるムツキとコトニ。緊迫の空気が降りる。たった数秒にも満たない短い時間が、ひどく長く感じた。
「ムツキさん! 無事でしたか!」
煙の中から姿を現したのは、白と灰色のマーブル模様に身を包む人だ。縦にも横にも図体が大きい。加えて胸には長い、黒光りする筒を抱えていた。
「サカモト、合流できてよかったッス。足、見てやって」
肩の力を抜いたムツキが巨体へと歩み寄る。サカモト、そう呼ばれた人はにこりと目を細めた。そうかと思えばシロの前までやって来て膝をつく。それでも大きな身体。シロは思わずコトニの腕を引いた。
「きみがシロちゃんか。話は聞いているよ。今までよくがんばったね」
語りかける声は低く、腹の底に響くようだ。黒い頭髪は短く、よく見れば口まわりにもまばらに――頭髪よりも短い毛を生やしている。眉も太いし、頬から
世話役ともコトニともムツキともユイとも、もちろん己やアンとも違う。警戒と混乱と、複雑に入り組む感覚に目を回していると、不意にコトニが声を上げた。
「シロちゃん怪我してる、いつの間に!?」
「そりゃあ裸足で走ってきたら、そうなるでしょうよ」
呆れ気味のムツキに、苦笑いを浮かべるサカモト。
冷静に自分の身体を見てみると、確かにシロの足は何も
ウサギのマークがついたスリッパ、気に入ってたんだけどな。シロは一人眉を下げた。
コトニに言われるがまま壁際に腰を下ろす。どうやらサカモトは治療をしてくれるようで、懐から小さなバッグを取り出した。中には包帯やら消毒液やら、数は少ないものの医療用品が揃っている。
サカモトはシロの足を苛む小石を取り除き、消毒し、包帯を巻いていく。寸分の迷いのない、慣れた手つきだ。これまでに触れたことのある手よりもずっと太く、ずっと大きな手。
あの人は――世話役は、鴨ノ羽トモミは無事だろうか。
彼女を残してしまったことが、何よりの心残りだった。ムツキやコトニに導かれるままに飛び出してきてしまったが、できることならば、トモミのもとに戻りたかった。自分は無事だと、抱き締めたかった。抱き締めてほしかった。
「ね、ねえ」
「うん?」
「トモミさん……怪我してない? ぼく、トモミさんと話さなきゃ。足のことも、『外』のことも。『出ていい』って言ってもらわないと――」
「見つけた」
不意に聞こえてきたのは、待ち望んだ声。トモミだった。片足を――赤く濡れた足を引きずりながら、ふらふらと歩む様に、さあっと全身の血の気が引いた。
「トモミさ……っ」
駆け寄ろうとするシロを制するのは太い腕。サカモトは地面に置いていた長い筒を取り上げて、眼光鋭くトモミに向き直る。
どうして。脳を支配するのは疑問、ただ一つだった。
「おーっと、そこまでッスよ、鴨ノ羽トモミ」
そこへ進み出るムツキ。手には拳銃が――銃口が。火を噴くそれを。
「じきにこの研究所は反人工生殖派の手に落ちる。その時にアンタが生きていると不都合なんス。我々がシロ氏を連れ去るところを見た、アンタが生きていると」
「…………」
対するトモミの手に銃はない。どこかに置いてきたのかもしれない。己に向けられる銃口を、ただじっと見つめていた。
「やはり、あなただったのね、二人静ムツキ。あなたが全て、手引きした」
「手引きだなんて人聞きの悪い。そもそもとして、アンタらの強欲が引き起こしたことだろう。小生を――二人静ムツキを研究所に招いた時点で、全ての結末は決まっていた」
淡々と語るムツキの横顔は、夜の庭のように静かだ。
「ふたなりの殺害。もともと小生の任務は至極簡単なものでね。だけど――まさか二人も囲っていたなんて。けど、むしろ幸運だった。一人でも殺せば任務達成ってことになる、つまりシロ氏を生き残らせる選択肢もあるっちゃァあるんスよ」
トモミの眉が、微かに動く。疲れ果てた目に、光が戻る。
「アンタが今選べるのは二つに一つ。大人しくシロ氏を渡すか、シロ氏を殺してアンタが生きるか」
「ムツキちゃん!」
嫌だ、嫌だ。
火を噴く黒へ手を伸ばす。腹に抱え込んで、ぎゅっと目をつむる。
大きな舌打ち。苛立ちに声を張るムツキは空いた手でシロを退かそうとしている。
「これはシロ氏のためでもある。分かってください。これが、シロの選んだ結末だ」
違う。こんなもの、選んでいない。望んでいない。
叫びは届かない。淡々と告げる声が、シロを引き剥がす。
「サカモト、先に出てて」
「嫌だ! ねえ、待って! ぼくがっ、ぼくが死ぬから、トモミさんは――」
巨体に抱えられ、もがいて、もがいて。それでも逃れることはできず。ムツキの背は小さくなる。
どこで間違えた。どこで、何で。そればかりが脳を駆け巡る。
赤子の頃から世話をしてくれたトモミ。
食事、排泄、着替え、身の周りのありとあらゆることを学び、ひらがなもカタカナも、ようやく覚えたはじめた頃だった。
実子ではないのに、まるで自らの血が入った子供のようにかわいがってくれて、いずれは恩返しを――シロの子供を見せてあげたいと、そう願ったのに。
トモミと嫁と、彼女たちのいる生活が、ただ続けばいいと祈っていたのに。
「おかあさん」
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