#35 導き

 もつれる足で飛び込んだのは、どこかの部屋だ。


 もともと誰かが暮らしていたのか、複数のベッドや椅子、机が置いてある。薄暗い空間に荒い息が響く。


「シロ氏、これ着て」


 そう言いながら、ムツキは自らの上半身に被せていたスウェットを脱ぐ。温もりの残るそれを、未だぽかんとしたままのシロに押し付けた。


 シンプルなキャミソールと白い肌が暗闇に浮かび上がる。


「とっ、飛び出してきちゃったけど、どうするの……?」


 扉に張り付いたままのコトニが、恐る恐る問い掛ける。それを一瞥するムツキは、シロのまとっていたシーツで即席のスカートを作り上げる。器用に折り畳み、あるいは縛りながら、シロの身体を隠した。


「動きづらくないッスか」


「う、うん、平気……」


 シロが腕を通したスウェットは少しだけだぼついている。ムツキが着ていた頃には然程気にならなかったが、えりぐりに心許なさを感じるのは、着ている人物による差異であろうか。


 くい、と襟を引けば、シロの心中を察したようにムツキがフと喉の奥を鳴らした。


「ねえってば……ねえ、これからどうなるの……?」


「ああ、コトニ氏。どうなるって逃げるんスよ」


「に、逃げる? そんなの契約不履行ってやつなんじゃ……」


「クク、嫌ならさっさと投降した方がいいッスよ。まだ戻れる」


 ぐっと言い淀むコトニ。その横顔からは葛藤が読み取れた。途端に不安が蘇る。


 あれから縹ユイは、鴨ノ羽トモミはどうなった。茜アンはこれからどうなるのか。扉の外から聞こえる、耳障りな音は。


「あ、あの……」


「シロ氏」


 くるりと振り返ったムツキ。彼女はシロよりも一回り大きな手をもってシロの肩を掴んだ。


「全部小生に任せて欲しい。後でちゃんと説明するから、今は――どうか信じて」


 じっとシロを見据える。疑う余地はない。そもそも疑うという思考すらなかった。


 ひどく強張っていながらも、瞳の奥に宿るのは自信に満ちた炎だ。ムツキには考えがある。失敗のしようがない、確実な考えが。


 コトニも何か感じたのか、「アタシも行く」と手を挙げる。ムツキは渋い顔をするかと思いきや、少しはにかんで、


「二人も子守りはできないッスよ」


 と、ズボンから手の平ほどのタブレットを取り出した。


 ふと右手が温もりに包まれる。コトニだ。シロの手を握って、唇を結んでいた。


 ムツキとは対照的に、彼女からは恐れすら読み取れる。シロの視線に気づいたのか、ぱちりと目が合う。ハチミツを溶かしたような、甘い色の瞳。精一杯に緩めて嬉しそうに、あるいは苦しそうに笑む。


「これで共犯だね」


「…………?」


 これ以上、シロに語り掛けることはなかった。代わりにコトニはムツキを――手の平ほどのタブレットを下ろした彼女を見やる。


「話しは終わった?」


「ああ。イレギュラーはあったが――何、三日早まっただけ。大した問題じゃない」


「後でちゃんと説明してもらうからね」


「もちろん。……ああ、ユイ氏は別途保護するんで気にしなくて大丈夫ッス」


「アタシは何をすればいいの?」


「そのまま外に。道は案内するから、シロ氏を連れて走って」


「はーい」


「ま、待って、外?」


 思わずシロが声を上げると、コトニとムツキは顔を見合わせる。


「シロ氏はこれから外に行くんス。この研究所の外」


「……そっか」


「おや、また『なんで』攻撃が始まると思ったんスけど」


 にやにやと悪戯げな笑みとともに茶化す。その顔は、あの赤髪とよく似ている。顔の造りゆえか、それとも表情の作り方がたまたま似ているのか。判断はつけ難かったが、ムツキの笑みだと焦燥が引いていくのはなぜだろうか。


 けれど、答えは変わらなかった。


「もういいの」


「……うん、今は休みな」


 これから走ることになるけど、とムツキは肩を揺らす。それでも頭を動かすよりはマシだった。


 もう何も、考えたくない。考えれば考えるほど、己の黒い感情が膨れ上がってしまう。こんな思い、抱いてはいけないのに。


 ムツキを先頭、その後ろに続くコトニに手を引かれてシロは走り出す。足がもつれて何度も転がりそうになる。頭を支配していた黒い感情はいつの間にか消え失せ、ただ肺を苛む苦しさだけが残る。


 何も考えなくていい。悩まなくていい。あの少女は――身をていしてシロを助けてくれた少女は、これに惚れたのだろうか。


 家の外はひどく入り組んでいた。天井も壁も床も全てが白く、色はほとんどない。扉の境目すら、目を凝らさなければ認識できないほどだ。


 ムツキやコトニがいなければ、自分がどちらを向いているか、天井に立っているのか床に立っているのかすら分からなくなっていただろう。


 真っ白の世界の中に、唯一の色を持つ嫁たち。


 シロとほとんど変わらない年齢で、背丈で、それなのに真っすぐと突き進む様に、胸が締め付けられた。もしも反対の立場だったら。シロは――自分は、導くことができるのだろうか。

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