#6 我慢しなくていい

「ほう、生意気にも小生を誘ってるな? いいぞ~、乗ってやろうじゃん」


「ひいっ」


 その悲鳴はムツキに対してか、それとも無謀への悔恨か。逃亡を再開するシロの体力は限界に近く、もはや逃げ切ることは不可能であった。


 部屋を三周ほどした時、とうとうシロの足が限界を迎えた。


「はあっ、はぁ……も、走れない……」


「お? もうギブアップ?」


 ムツキはシロの肩に触れる。『鬼』役をシロと交代してからしゃがみ込んだ。


「体力ないッスねー、これじゃあワンラウンドでくたびれちゃいそう。運動とか、してないんスか?」


「う、運動? 『ラジオ体操』なら毎朝やってるけど……」


 ぎゅっと締め付けるように痛む胸に、シロは背を丸める。


 ムツキが背をさすってくれるが、その顔が愉悦に歪んでいることを、シロは知らなかった。


「あれ、シロちゃん。どうしたの、疲れちゃった?」


 シロの異変に気付いたらしいコトニがやって来る。いたたまれなくなったシロは視線を落としてこくりと頷いた。


 コトニは安堵した様子でシロの前にしゃがみ込むと、


「ごめんね、シロちゃんと遊ぶのが楽し過ぎてはしゃいじゃった」


「そんなこと……っ」


 コトニは何も悪くないのだ。必死に否定をするが、コトニは困ったように微笑むばかりだ。


「今日はこの辺りでおいとましようか? シロちゃん、疲れちゃったみたいだし」


「まあ、いいですけど……」


 帰る、それはこの『家』からヒトがいなくなることだ。


 シロは知っていた。『帰った』あと、しばらくヒトはやって来ないのだと。


 しばらくの間、シロは一人きりになるのだと。


 それはひどく寂しいものだった。思わずコトニの裾を掴んでしまったのは、それを恐れるからであろう。


「帰っちゃうの?」


 きゅるりとシロが見上げた先には、頬を紅潮させたコトニの顔が映っている。コトニは声にならない声を上げると、シロに抱き着いた。


「も~っ、そんな目で見ないでよ~! ムツキちゃん、アタシ、もうちょっとだけ遊んでから帰るね!」


「ご自由にどうぞ」


「アタシ、こんなに惚れっぽくないはずなんだけどな~!」


 すりすりと、シロの頬に己を寄せる姿といえば、念願叶って手に入れた人形を愛玩するかのようだった。


 頬に触れる温もり、逃がさないとばかりに回された細い腕。押し付けられる柔らかな感触。すべてが未知で、固まらずにはいられない。


「おいおい、コトニ氏。流石に即堕ちは楽しくないッスよ」


「だってだってだって~! 見た、さっきの。子犬だったよ、子犬!」


「まあ見ましたけど。それにしたって、ちょろ過ぎません?」


「ちょっ、ちょろくないもん! ね、シロちゃん、一緒にお部屋戻ろう? 何ならアタシがここ住むから」


「めっちゃ懐かれてるじゃん、シロ氏」



   ◆◇◆



「どうだった、初めての会談は。仲良くできそう?」


 わしゃわしゃと、白い泡がシロの髪を掻き混ぜる。シロは手の中でしゃぼんだまを作りながら、「うん」と元気よく頷いた。


「あのね、いっぱい遊んだよ。『ババ抜き』でしょ、『鬼ごっこ』でしょ。明日はね、『七並べ』と『人生ゲーム』する約束したの!」


「うんうん、よかったね。――ほら、目、ちゃんとつむってないとみるよ」


「あう……」


 シロが目を瞑ると、頭上からシャワーが掛けられる。茶色の髪に絡まっていた白い泡はみるみるうちに流され、排水口へと消えていく。


 シャワーが途切れるとシロは慌てたように手を振り、顔を擦った。


「ふあっ、た、たおる……」


「はいはい」


 苦笑のトモミがシロの顔を拭ってくれる。


 やっとのことで前が見えるようになったシロは、慈愛をもって世話をしてくれるトモミを見上げると、へにょりと眉を曲げた。


「……ほんとに、しなきゃだめ?」


「ん、何を?」


「子作り」


「怖くなっちゃった?」


 シロは黙り込む。


 図星であった。


「あのね、コトニちゃんがいっぱいスリスリしてくれたんだけど、ぼくね、ちょっとだけ……」


「怖かったんだ。凄かったからねぇ、勢い」


 なぜトモミが知っているのか。ふとシロの脳裏に疑問が立ち上るが、それは湯気のように掻き消える。


「彼女も悪気があるわけじゃないから。あれは彼女なりのコミュニケーションなんだよ。少しずつ、慣れていけばいいさ」


「それにね、それにね、みんなにも言われたの。急がなくていいって。仲良くなってからって。本当にいいの? 今すぐじゃなくて」


 子供を作り、次世代を作る。それは幼い頃より言い聞かされた、シロの任務であった。


 自らに精通が訪れたらすぐにつがいを設けて温かい家庭を築くのだと、そう思い込んでいた。


 なのである。


 あまりにも消極的な娘たちが異形のように見えたのは。


 子を成すビジョンが見えなかったのは。


「…………」


 シロは視線を逸らして自分の身体を見下ろす。


 少しだけ膨らみ始めた胸。タオルの張り付く股座には、トモミにはないがある。『一つの性』を持つトモミとは全く異なる身体だ。


 今日出会ったばかりの娘たちも、トモミと同じ『一つの性』を持つのだろう。子の種を受け入れ、育てることを任とする神々しい性が。


 背後のトモミが黙り込んでいることに気づくと、シロは慌てて弁解を口にする。


「あっ、あのね、違うんだよ! 子作りしたくない訳じゃないの。ただね、どうしてそんなこと言うんだろうって、すごく不思議に思って。だけどトモミさんなら分かるんじゃないかって……」


「……そうだね、分かる、かもしれないね」


 シロはぱっと表情を明るくする。しかしトモミはといえば、ボディーソープを手に取って、くしゅくしゅと泡立て始めた。


「だけど、知りたいなら自分で調べなさい。お姉さんの口からは言えないから」


「言えない?」


 トモミの手が胴にまわる。やわやわと、シロの肉のない腹を撫でると、小さな背にもたれ掛かった。


「私のかわいいシロちゃん。何も我慢しなくていい、遠慮しなくていい。自分らしく、自分の生きたいように生きるんだよ」


 呪文のように唱えるトモミ。


 こぼれた髪がシロの肩に張り付くその様は、獲物を捕らえる蜘蛛のようであった。図鑑で見た光景だ――シロは目を細めて頷いた。


「じゃあトモミさん。お風呂から出たら、本、読んでくれる?」


「いいよ。何がいい?」


「『三匹の子豚』」

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