#4 ハートのキング
「いたた……また踏んじゃった……」
金色の髪が、カーテンのように視界を遮る。影の降りたコトニの顔は、依然として人形のように愛らしかった。
「だ、大丈夫、シロちゃん⁉」
間近に迫る、コトニの顔。長く細い睫毛に彩られた瞳が、ぱちりと瞬く。
トモミとは違う、甘い香り。
脳の根幹を揺さぶるような芳香が、鼻腔から背筋へと伝う。
何が起こったのか、分からなかった。身体を駆け抜ける電撃がシロの身体をくすぐる。
「ベタすぎて草生え散らかすわ」
シロを現実に引き戻したのは、呆れ返ったムツキの声であった。
「ほら、お二人さん。おっぱいくっつけ合ってないでババ抜きしましょ、ババ抜き」
「そ、そうだね。立てる? シロちゃん」
胸の上に乗っていた柔らかい温もりが遠退いていく。差し出される手を掴んで、シロは起き上がった。
何となく気まずく視線を落とすと、カーペットの上は凄惨たる様子だった。
「あーあ、トランプ、バラバラになっちゃったね。どんな手札だったか、覚えてる?」
「う、ううん……」
二人と比べると、配られた当初の手札を長く手にしていたシロであるが、その内容を記憶してはいなかった。十枚以上、その内何枚かが赤――その程度の記憶である。
また配り直しかぁ、と散らばったトランプを集め始めるコトニに、
「小生、復元しましょうか?」
「えっ、ムツキちゃん、できるの?」
「小生とコトニ氏が場に出したカードから推測することしかできませんけど」
「もしかして全部覚えてるの? 誰がどのカードを捨てたかって? すごーい!」
「はあ? このくらい普通――」
ムツキは怪訝そうな顔をする。だが何かを思い出したのか、寝癖のついた髪を乱暴に掻き混ぜた。
「……あ~、まあ、そーいうことにしときますわ」
その声は、明らかに釈然としない様子だった。シロとコトニは顔を見合わせる。しかし答えは出ぬまま、目の前で着々と揃えられていく手札たちに目を輝かせた。
「うわぁ、すっごい! 最後に見た手札そのままだよ!」
「どうやって覚えたの? トモミさんでもできなかったのに……!」
「めっちゃ褒めるじゃん……怖……」
興奮冷めやらぬ様子で褒めちぎる二人に、ムツキはたじたじである。猫背をさらに丸めて縮こまる。
称賛され慣れていないのだろう。じわじわと赤くなりゆく頬を、シロは微笑ましい心持ちで見守っていた。
◆◇◆
ババ抜きの結果といえば、シロの惨敗であった。
まずムツキが当然のように最初に上がり、次いでコトニが手札を全て捨てる。シロの手元には憎たらしい笑みを浮かべるジョーカーと、どこかで捨て忘れたらしいハートのキングが残っている。
「この札is何。ハートのキング、九回目に捨てたはずでは」
「捨てた順番まで覚えてる……。確かに、ハートのキングは捨ててたかも? だとするとおかしいよね。ハートのキングが一枚だけシロちゃんの手元に残ってる、なんて」
首を捻るコトニにシロも同意を示す。捨てたはずのものが手元にある、それは普通に考えて『おかしい』ことであった。それはシロにも分かる。
「研究所で借りてきたやつだから、ひょっとしたら紛れてたのかも……」
「はー、カードゲーム冒涜の極み~」
ありえないわ、とムツキは顔を歪める。カードゲームはカードが一枚でもなくなると、戸途に生命の危機に瀕する。カードのシャッフルはその危険性を格段に押し上げる、禁断の所業であった。
「ん、このキング、ストーの方を直視してるな?」
「ストー?」
「このハートの絵のこと。本来ハートのキングは、ストーから四十五度顔を背けているはずなんだけど」
ムツキはシロの手からハートのキングを抜き取ると、じっと考え込んでしまう。一体何が気になるのか、シロには全く分からなかった。
「ちょっとの絵柄の差くらいあるんじゃない? いろいろな会社から販売されてたんでしょ、トランプって」
「……テンプレは変わらないと思うんスけどね」
意図せず生まれたジャンク品ではなく、故意に混ぜ込んだ模造品。誰がどのような意志を持って差し込んだのだろうか。
これにはムツキもお手上げのようで、ただただ首を捻るばかりであった。
「ま、まあ、その変な王様は置いておいて、次何する? 『七並べ』でもする?」
「し、『七並べ』、ぼくも分かるよ!」
すかさず声を上げるシロに、コトニはおかしそうに肩を揺らす。
「シロちゃんが楽しんでくれてるみたいでよかった。ここで育ってきた子がどんな遊びをしてきたのか、全く想像がつかなかったからさ」
「遊び?」
シロは一日中部屋の中で過ごしていることが多いが、これといって退屈したことがない。
空き時間ができようものなら、トモミが来るたびに補充してくれる本を読んでいるし、時には彼女自身に遊んでもらっている。
『ババ抜き』を始めとしたカードゲームや、『オセロ』や『将棋』などといったボードゲーム、さらには百年ほど前に制作されたという、人間の一生を辿るすごろくも経験がある。
過去十四年、ルールに準じた遊びを覚えてから約十年。シロは決して少なくない『遊び』に身を浸してきた。いつの間にか白星ばかりを取るようになったゲームもある。
自分に知らないものはない――そう謎の自信に満ちていたのだが、それは儚くも打ち砕かれることになる。
「じゃあ『鬼ごっこ』は?」
「おに……? 鬼になって遊ぶの?」
「違う違う。『追いかけっこ』って言ったら分かるかな?」
「追いかける……あっ、『カバディ』なら知ってるよ! 前、資料動画で見たことある!」
「えっ、か、『カバディ』……?」
今度はコトニが怪訝そうな顔をする番だった。
『カバディ』といえば、かつて南アジアの辺りで盛んに行われていたというスポーツだ。カバディ、カバディと唱えながら行う、傍から見たれば滑稽とも言えるゲームなのだが、シロが知っている『スポーツ』と言えばそれか『ボルダリング』の二択であった。
もしかして、自己紹介をしてすぐに退室した縹ユイは、今頃『カバディ』に興じているのではないか。そう気づいた瞬間、途端にユイに対して親近感を抱くシロなのだった。
「『鬼ごっこ』も『追いかけっこ』も知らないのに『カバディ』は知ってるとか、知識の偏りがパネェ」
「パネェ?」
「パネェッスわ、シロ氏」
白い歯を見せてムツキは笑う。
そうか、ぼくは『パネェ』なのか。シロは納得する。
知らないことがあるにも関わらず、全能のように傲慢な心持ちでいることは、決して罪ではない。むしろムツキやコトニならば、仕方ないと笑ってくれるかもしれない。
シロは、ぽぽぽと熱を持つ頬を隠すように顔を伏せた。
「じゃあ、やってみる? 『鬼ごっこ』」
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