人営みを知る怪異
一か月もの間、俺は空虚な時間を過ごしていたが、実を言えばその間にも茜さんはちょくちょく俺の前に出てきた。会話と言っても用件はその時々で、今日の天気であったり、割と使いどころのない蘊蓄―――ゴリラの学名とか、トゲアリトゲナシトゲトゲの話とかトイレの歴史とか―――であったり、今日が何の記念日かであったり。一番くだらなかったのは今週生まれた野糞の数の話だ。あれは本当に何を言いたかったのか今でも理解出来ない。
だが嬉しくなかったと言えば嘘になる。絢乃が死んだ事で少なからずダメージを受けていた俺にとっては、どんなくだらない話だとしても俺の為にしてくれたのだから、嬉しかった。一か月の間の俺は怪異よりも怪異らしく虚ろだったから、茜さんは決して返事を求めなかった。勝手に話して、勝手に満足して、勝手に帰っていく。それだけだった。それだけでも良かった。怪異に体温はなくとも、茜さんは俺に温かさをくれた。
彼女(厳密には性別が無いが、便宜上そう呼ばせてもらう)を誘ったのは消去法だったが、それに対する恩返しというのも理由としては多分に含まれている。それにこういう状況にでもならないと、俺は命様ばかり優先してしまって、少しも茜さんと交流出来ない。
「しかし君は妹とは仲が悪かった筈だが、どうして突然体育祭に? 仲直りはしなかったんだろう?」
「ええ。だから清華のを見に行く訳じゃありません。知り合いの中学生を応援にしに行くんです」
「知り合いの中学生? いつの間にそんな子と知り合いになったんだい? もしかして、私の事かい?」
「いや、どう見ても茜さんは中学生じゃありませんし、そもそも怪異ですよね! 仮に参加しててもそんなの勝手に混じってるだけじゃないですか!」
命様の外見が俺と同じくらいだとするなら、茜さんの外見年齢は大学生か社会人だ。中学生でそこまで外見が成熟していたらむしろ考えものである。大体茜さんみたいな美少女中学生は幾ら何でもリアリティがない。不可視の存在にリアリティなど求めても仕方ないのだが、それにしても中学生でクールビューティーな美しさを持つ女性など果たしてこの世に居るのかどうか。居るとしたらそいつは人間じゃない気がする。
「ははは、冗談だとも。しかし何だ。君は人間不信だと思っていたが、それは私の気のせいだったという事でいいのかな。私の見た所、君は好んで不可視の存在と交流している。それこそ人間不信の裏返しなのだと確信していたが、今回の行動を見るに心変わりがあったのか、それともその中学生が、君にとって余程大切なのか」
「いえ、人間不信なのは事実ですよ。只、その子はメアリの事を知りません。俺の事も勿論。信者じゃないんですよ、茜さん。この世界に、いや、この地域にまだそんな人が居たんです。正常な人間が居たんですよ。アイツの秩序に毒されていない、俺が愛していた本来の人間が居たんです!」
正常とは何だろう。
メアリの影響を受けていない事だろうか。
しかしこの町においてそれは異常だ。社会は異常を嫌う。故に俺は孤独になっている。では正常とは何だろう。メアリの信者は異常としか思えないので、それが正常とも思えない。では正常とは何だろう。
俺が思うに、正常な人間とは『何も知らない人間』だ。そういう意味で言えば、つかささんと幸音さんはこの町でたった二人だけの正常な人間だと言えるだろう。
興奮冷めやらぬ様子で茜さんに語ってしまったが、この喜びは理解されないかもしれない。しかし俺は茜さんを信じている。理解は出来なくても受け入れてくれると。居る筈もないと思っていた例外をたまたま見つけてしまった喜びを。
それはまるで、絢乃が俺にもたらしてくれた幸運みたいで、メアリ打倒への手がかりが何となく見つかったみたいで。
「……済みません。ちょっと興奮しました。でもそれくらい凄い偶然なんですよ。運命の風向きがこちらに向いているんです。分かってくれますか?」
「分かるとも」
「…………自分で言うのも何ですけど、どうしてそう言えるんです?」
俺は面倒くさい女性か何かか。こんな質問は愚かであり、下手を打てば相手からの信頼を損ないかねない。
それは「私を愛してるか」と聞いて「愛している」と返されたら「具体的に何処を愛しているか」と聞くようなものだ。詳細な説明をこちらから求める行為は、ともすれば相手への不信、それを知らせる事に繋がる。もし本当に相手を信じているのなら、「愛している」の言葉だけで十分。それ以上の言葉は要らないのだ。
言葉が少なくとも感情は伝わる。不信とは言葉で飾らねば決して伝わらぬ偽りの感情の事である。
しかし茜さんは違った。
「分からない筈がない。分かろうと思ったから分かる。理解とはそういうものだ」
「…………何ですか、それ」
「同じ境遇、同じ経験、類似した性格。どんなに理解出来る環境があっても、理解しようと思わなければ誰しも理解出来ないものさ。理解は受動的ではなく能動的な行為だ。”される”のではなく、理解は 等しく”する”ものだ。仮に、メアリが過去に君と同じ境遇になり、同じ経験をしたとしよう。それでも君は彼女を理解しようとしない筈だ」
「当然です。大嫌いですから」
「当然だね。大嫌いだから。そしてそれこそが理解を能動的行動だとする証拠だ。もし理解が出来る出来ないで表されるものなら、君には幾らか理解出来る人物が生まれてしまうかもしれない。でも事実はそうではない。君は誰も理解出来ない。何故なら理解しようとしてないから」
茜さんは俺を信じている。だからこそ俺の不安が手に取るように分かる。感情が言霊によって揺らぐなら、言霊によってつくられた茜さんが俺を分からない筈がないのだ。
「裏を返せば、どんな状態であれ、理解しようと思えば人は理解出来る。理解に才能なんて要らないんだよ、少年。私は君を理解しようと思ったから理解している。これはたったそれだけの話だ」
彼女は強引に話を区切り、それから改めて話を切り出した。
「それで、正常な人間だったか。その存在こそが君を行動に移させたと?」
「いや……そんな大袈裟なものじゃないですよ。友達がテレビに出てたらそのチャンネル見たくなるじゃないですか。本当にそれくらいの理由です。面識もあまりないので、それ以外の理由はむしろありません」
「おや、存外に些細だね」
「些細じゃいけませんか?」
「結構な事だ。動機が強烈である必要はない。動機の大小が動かすのは人の感情だけ、大きさがどうであろうと本人にとっては紛れもない動機さ。所で期日はいつ頃かな?」
「……明日ですね」
「そう。ならば君も早く眠った方が良い。こんな所まで来てくれたのは嬉しいけれども、結果的には悪手だったね」
茜さんが言及してくれた事で、今更思い出したように俺も「あッ」と声をあげた。
彼女にお誘いをかける為だけに、俺は駅近くの公園まで来ていた。
茜さんに昼夜の概念は無く、特定の居場所はないため、こちらも手当たり次第探す他無かったのだ。お蔭で夜はすっかり更けてしまい、こちらに駆けよってくる警察官の姿を空目するくらい、俺は疲れていた。
せめて空目するなら命様にして欲しいものだ。
「君の脚力では家まで辿り着けるかどうか……そもそも道のりは覚えているのかな?」
「あー…………多分、覚えてます。覚えてる筈です」
「そうか……少年、目を瞑ってくれ」
「え? テレポートで送ってくれるんですか?」
言いつつ目を瞑る。茜さんは苦笑交じりに返した。
「そんな事が出来るならとっくにしているさ。君が無事に帰れる様におまじないをかけてあげよう」
「おまじないって……茜さんに一体どんなおまじな―――」
俺は途中で言葉を止めた。
いや、止められた。
何かとても冷たい感触が、額に当たったような気がしたから。
思わず目を開けて彼女を見遣ると、茜さんは悪戯っぽく口元を人差し指で押さえていた。
「――――――い、今。何を」
「それを聞くかい? 私は元メリーさんだよ? ラブホテルを起源とする、レイプされた少女の霊、その幻影だ。男性がどういう事をすれば喜ぶのかは熟知しているつもりさ……そうだね。ヒントをあげよう。君が予想する答えの中で、最も君の頬を赤くしてしまうものが答えだ」
「…………き、キスしました?」
茜さんは何も言わない。俺があてずっぽうに答えても、淫靡な微笑みを向けるだけだった。
「…………あッ」
兄貴のベッドに置いた体育祭の広告が無くなっている。もしかして兄貴、取ってくれたのだろうか。ゴミ箱を見たけれど、何処にも捨てられていない。公認の嫌われ者である兄貴が回りくどい隠蔽工作をするとは考えにくいので、とってくれたんだ…………!
でも、それならそれで不思議だ。
私が、私達が今まで兄貴に行ってきた仕打ち。それの正否はともかくとして、兄貴が赦すはずもない。赦してくれる筈もない。たとえ私達がその仕打ちと同程度の罰で裁かれようとも、絶対に赦そうとはしないだろう。それくらい兄貴は怒っている。その怒りが一日二日で消える筈もない事は、今までの言動や態度から 良く分かっている。
兄貴にとって、檜木清華は最早妹ではない。体育祭に行く理由などあるのだろうか。両親は見に行くと言ってくれたが、兄貴をわざわざ連れてくるとは考えにくい―――
「――――――ッ! …………ぅぅ」
どうしよう。どんな顔を兄貴に見せれば良いのだろう。どんな理由があれ兄貴が来てくれるなら嬉しい。会話する権利はもう私からは失われているとしても、この世界で唯一『正常』であり続けた兄貴の前では、せめて良い所を見せたい。
そうだ、今なら認められる。私は兄貴の事が好きだ。そんな好きな兄貴なのに、私は酷い事をした。メアリさんと出会った事で、全てが歪んでしまった。それを不可抗力などと言い訳するつもりはない。どんな不可視の力が働いたとしても、それは兄貴にだって働いた筈だ。しかし兄貴はメアリさんを認めなかった。つまり抵抗しようと思えば抵抗出来たのだ。
「………………ごめんなさい、兄貴」
言葉では何とでも言える。言うだけならタダ、だ。心の底から思っていなかったとしても、言おうと思ったその瞬間だけは、嘘も本心となる。だからこんな気持ちも、兄貴に赦されたいという私の甘えから来るものなのだろう。そうでなければ嘘だ。そうでなければおかしい。
この期に及んで、私は自分の事ばかり考えている。クソ女め。
「…………………………メアリさんは、体育祭来るのかな」
兄貴の居る所にメアリさんあり。私は知っている。メアリさんが自ら動いて絡もうとするのは兄貴だけである事を。以前の私も含めて兄貴以外は、自ら話しかけなければ相手もされないのだという事を。
………………兄貴。
身勝手なお願いだとしても、願わずにはいられない。
大嫌いのままでいい。
赦さなくてもいい。
それでもどうか、私をもう一度妹として見てくれないだろうか。
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