さわらび
清瀬 六朗
第1話 象の形の丘
ブリジッドは扉をそっと閉め、外に出た。
夜の風の冷たさが体をつつんだ。帽子と上に羽織るものを持って出たほうがよかった。でもいまさら取りに帰れない。
泣きたい。でも泣くのはいやだ。それに、泣いているところをいじわるな歳上の人たちに見られると、もっとみじめなことになる。
扉がきちんと閉まったかどうかを背中の後ろに手を回して確かめ、背中をその扉にもたせかけて夜の空を見上げた。
ウィンターローズ荘の女中部屋を出たところには「象のような形の」といわれる丘がある。
ほんとうに象のようなのかどうか、象を見たことのないブリジッドにはわからない。
いじわるな丘だ。
この丘があるおかげで女中部屋は朝の日あたりが悪い。この丘があるおかげで、女中部屋から出る道は細く、外に出るとその細い道をこそこそと歩かなければならない。この丘があるおかげで、女中部屋の洗濯物干し場が狭くて、ブリジッドは満足に洗い物を干すことができず、いつも湿っぽい服を着なければいけない。
そんなに高い丘ではない。でも、ここから見上げると、丘は大きい。自分のほうにのしかかってくるようにさえ感じた。
てっぺんに樫の木がある。
大きな木だ。もしかすると地面より丘の頂上までの高さよりももっと高いかも知れない。
それが、夜空に向かって、大きく枝を広げている。
木がこんなに育つまで何年かかったんだろう。
想像もつかない。
丘はうっとうしいが、この木を見上げているのは好きだ。
昼でも、夜でも。
きっと、この樫は、ブリジッドが生まれるずっと前からこの姿でここにあって、ブリジッドが死ぬときもこの姿のままなんだろうな。
そんなことを想像していると、なぜかブリジッドは気もちが落ち着くのだ。
月は見えない。空は厚い雲に覆われているらしい。
大きく息をつく。
ふと、ブリジッドは、その樫の木の下を白いぼんやりしたものが過ぎったと思った。
幽霊でも見たのか?
それともただの見まちがいか?
片づけ忘れた洗濯物が風で飛んで行ったのだろうか?
しばらく、その白いぼんやりしたものが行った先のほうを見てみる。
また白い陰が見えた。見まちがいではない。
あっ、と、声がブリジッドの唇から漏れた。
髪が短くて、背が低くて、やせっぽち……。
あの子にまちがいない。
あのなまいきなメアリー……。
名まえはたしかメアリー・ファークラッドと言ったはずだ。
それが、この夜中に、丘の上を急ぎ足でどこへ行くのだろう?
どこかで
どこか、見つかりにくい場所を決めて、落ち合って……。
きっとそうに違いない。
自分よりちょっと歳上というだけの歳のくせに!
うまくその場を押さえられれば、女中部屋の女中たちにうわさを流してやろう。いや、そんなことをしても、あのいじわるな女中たちはブリジッドをうそつき呼ばわりして、逆にブリジッドの悪口を流すに違いない。皿洗い女中の分際でアイリスお嬢様のお相手役をけなすなんて、思い上がりもいいかげんにしろ、なんて言われるだろう。
だったら、何か決定的な証拠を手に入れて、あのメアリーをじかに脅したほうがいい。
気の強いメアリーのことだ。最初は違うと言い張り、怒り、逆にブリジッドを脅すだろう。それに負けないくらいの強さは自分にはあるとブリジッドは思う。そして、メアリーの勢いが折れてきたところで、手に入れた証拠の品を突きつけてやるんだ。
なまいきなメアリーはどうするだろう?
街の悪い男の子たちにばかにされて、メアリーは涙を流して泣き声を上げて泣いたことがあるという。
同じように泣かせてやろう。
それでギニー金貨一枚くらいはくれないだろうか?
ブリジッドはそのメアリーの姿を見失う前に、小走りにその象のような丘を登り始めた。
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