3

 それから翌日。僕はまたあの場所へと足を運んでいた。相変わらず忙しない世の中とは関係ないって顔して静まり返ったその場所にまだあの姿はない。

 僕は一人、足を進め欄干に凭れかかった。


「ふぅー」


 仕事から家に帰りソファへと腰掛けた時と同じように自然と零れる溜息。体の力はスッと抜け、一日の終わりを感じる。また数時間後には無限ループのように似た一日が始まるっていうのに、まるでこの世の全てから解放されたように体の力は抜けていく。今日もよく乗り切った、その溜息は自分で自分をそう称賛しているのかもしれない。


「お疲れ様」


 そうしてると陽咲はそっと冷えたビールを僕に差し出して――僕は遅れてその声が記憶のものじゃないって気が付くと顔を横へ向けた。

 そこにはいつの間にか彼女が立っていて相変わらずの狐面が僕を見つめている。


「ビールとかはないけど、今日もお疲れ様」

「――うん。ありがとう」


 彼女は体を欄干へ向けるとそのまま腕を乗せ凭れかかった。


「んー。今日は何の話がいいかなぁ」


(それは僕の思い違いかもしれないが)その動きや声からはどこか嬉々とした雰囲気を感じた。楽しみにしてたと言うように彼女が楽し気に見えた。

 そう思うと僕も釣られて口角が上がっていく。


「じゃああれは? 二人共初めてだったビリヤードで僕が圧勝した話」

「えー何? 自慢じゃん。だったらスポーツ全般で私が君をコテンパンにした話もしよっか」


 別に僕はそこまで運動が苦手という訳じゃない。でもバスケにバドミントン、バッティングにスカッシュ、サッカーに卓球、ありとあらゆるスポーツを一緒にやってきたけど何故か陽咲には毎回負けてしまう。挙句の果てにはエアホッケーでさえ……。


「あー。えーっと。やっぱり二人共下手でいい勝負したダーツとかにしよっか」

「あれねー。イメージは完璧だったんだけどなぁ」

「それを言ったら僕もだよ。三本同時に投げて全部真ん中に当てられてるもん」

「それってあの漫画の話でしょ? 君がハマってた」


 緩やかに始まった想い出の会話は、それからどんどん盛り上がっていき僕らの笑い声は空を漂う雲よりも高く響いた。自分で捲る想い出のアルバムはどれも懐かしく、彼女が口にする話の中には半ば忘れていたモノすらあり、それはより一層僕の中を懐古の念で埋め尽くした。

 僕は今日一日――いや昨日の夜からずっとこうして彼女と想い出話をするのが楽しみだった。時間も何もかも忘れてただ数々の想い出に浸る。それが心地好かったのかもしれない。

 正直、未だに彼女が本当に陽咲かどうかは分からない。疑ってないって言えば嘘になる。けど今の僕にはそれはどっちでも良かった。彼女とする想い出話がただ懐かしくて、ただ楽しくて。彼女が何でそんな事まで知ってるのか、何て疑問も冷静になればある。でもそんな事を考えるより僕はただ――現実逃避をするように彼女とずっと話してたかった。

 だけど不思議と彼女と話しをしていると、まるで本当に陽咲と想い出を語り合っているように感じる。狐面越しに聞こえてくる声もそうだが、話している内容がそう感じさせてるんだろう。

 でも心のどこかではやっぱりそんな事はありえるはずもないという考えが常にあった。非現実的で御伽話だと。だからどれだけ彼女の声が陽咲と似ていても、二人しか知っていないような事を知っていても確信的な何かは欠けたままだった。彼女を信じないには何かがあって、彼女を信じるには何かが足りない。自分でさえ意味の分からない状況だ。

 しかしそれは不意に訪れた。ふと隣へ顔を向けたその時。記憶と重なったとは違う――どう表現していいか分からないが、とにかくそこには陽咲がいた。これまで何度僕へ見せてくれたか分からないあの胸を締め付ける笑みを浮かべた陽咲がそこにはいた。その瞬間、僕の中で彼女は完璧に陽咲と重なり合ってたんだ。自分でも分からない。言葉などでは説明出来ない感覚的な部分で、僕は彼女を陽咲だと思っていた。

 だけどふっと我に返れば目の前にいるのは狐面に着物のあの人。でも余韻の様に僕の中には陽咲が残っていた。


「君は、本当に――陽咲なの?」


 今していた話など無視して何の脈絡もなく、僕の中にはついさっきの感覚だけが残っては渦巻き、意識とは関係なく口は動きそう尋ねていた。その不意な問いかけに僕を見る無表情の狐面。数拍分の沈黙の中、僕はそんな狐面と見つめ合っていた。


「――そうだよ。雨谷陽咲。映画館でたまたま君と隣同士になってそれから何回か会って、付き合って、デートを重ねて、結婚して、幸せな日々を過ごした旭川陽咲だよ」

「でも君はあの時――」

「だから言ったじゃん。私には、心配事があってその想いが強かったからチャンスを貰えたのかもって」


 でもそんな事はあり得ない、言葉にはしなかったが僕は心の中でそう思っていた。

 でもその言葉を押さえ付ける程には、目の前の彼女はどこまでも――説明が出来ぬ程までに陽咲だった。信じざるを得ないと思える程までに。ここで出会ってからずっと――死んでしまったという現実を除けば、彼女は疑うまでも無く陽咲だった。目を瞑れば記憶の中と同じように陽咲と話していて。想い出を語り合えばそこに食い違いはない。

 どちらかと言えば僕は無意識の感覚をより重視するタイプだ。意識を越えて無意識にはより一層自分と言う存在を表し、核を突く何かがあると思っている。だから理由を説明出来る事より感覚的な部分で感じるモノを信じる。陽咲もそうだ。最初であった時に言葉には出来ないけど、この人だと思った。その感覚があったから告白して、結婚を申し込んだ。

 そんな僕の感覚が目の前の女性を――今でも愛し続けている陽咲だと言った。


「だからつまり……」


 だけどそれは圧倒的な現実で、今も夢に見る僕の心に深く刻まれた傷。あの日、あの場所。彼女は僕の目の前で――。




 あれは久々に午前から外に出てデートした日。そこに恥じらいなどなく自然と繋がり小刻みに揺れる手。


「お昼なににしよっか?」

「んー。何でもいいかなぁ」


 これといって食べたいと思う物が思い浮かばなかった僕は正直にそう答えた。

 でもそんな返事を最後に僕らの間から会話が消えた。僕は心の中で小首を傾げながら隣を見遣る。そこにはわざとらしく不機嫌そうな表情を浮かべる陽咲。


「え? 何?」

「そーれっ! ダメだよぉー」

「それって?」

「何でもいい」


 陽咲は僕を指差すと言葉に合わせ指を上下に振った。


「たまに夕飯でも訊くけど、その答えはダーメ!」

「でも本当に何でもいいし……」


 僕は何を言いたいのか分からず少したじろぎながらも思っている事を口にした。


「違うって」


 そんな僕にこれまたわざとらしく呆れた様子を見せる陽咲。


「こういう時は何か答えないと。特に夕飯はね」

「と言うと?」

「私は夕飯のメニューが思い浮かばなくて困っています。だから肉や魚や野菜とか麺類とかでもいいから答えてくれると嬉しいかな」

「あぁー。なるほど。僕はてっきりこっちが食べたいのあったら作るけど? みたいな意味かと思ってたよ」

「まぁそれも間違いじゃないけどね。でも出来れば答えてくれた方がありがいかなぁーって感じ」

「おっけ。次からはそうする」

「ありがとう」

「いや、こっちこそいつも美味しい料理をありがとう」


 話しが逸れた所為で結局お昼ご飯は決まらぬままそれからも僕らは歩き続けていた。

 その隣で僕はさっき言われた事を踏まえこっそりスマホで付近の美味しいお店を検索してた。蕎麦やお寿司など様々な料理をスライドしていく。その中で目に留まった少し高いけど美味しそうな鉄板焼き。僕はそのまま陽咲の手を引いてそのお店へと連れて行った。結果は成功。予想以上に喜んでくれた。僕自身も満足以上の料理を食べられたし、その後は二人して上機嫌で歩いていた。

 だけどそれはその時に不意に起きた。

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