第一章 彼者誰時

1

「そう……。おい、蒼汰!」


 大きく呼ばれた自分の名前。叩かれた肩。我に返った僕は反射的に声のした方を見遣る。

 そこに立っていたのは同僚の黒瀬翔琉。見るからに活発そうでどこか子どもっぽさも感じる彼は一番仲の好い同僚だ。この会社で出会ったけど、気が付けば仲良くなってた。

 そんな彼はどこか訝し気ながらも心配そうな表情を浮かべていた。


「ったく。大丈夫かよ?」

「何が?」

「上の空でぼけーっとしてたぞ」

「そうだった? でも大丈夫だって。ただちょっとぼーっとしちゃってただけだし」


 だけど翔琉は愁眉を開かず依然と表情は変わらない。


「お前さぁ……。やっぱもうちょっと休んだ方がいいだろ」


 それはさっきまでのどこか冗談めかし陽気さを含んだ声とは違い、真剣味を帯びていた。


「ありがとう。でも仕事で忙しい方が今はいいかな。その方が色々と考えなくて済むし」

「まぁ、そう言われたらそうかもな。多分、お前の気持ちは想像すら出来てないかもしれないけど、何かあったら遠慮せず言えよ。気分転換にも付き合うし、話しだって聞いてやるから」

「心強いよ。ありがとう」


 まだ先程の残響を残しながらも微笑みを浮かべた翔琉はぽんっと少しだけ強く僕の肩を後ろから叩いた。


「んじゃ。早速、今日の仕事終わりに呑みになんてどーだ?」


 そう言ってビールジョッキを呷るジェスチャーをする。


「んー。今日は止めとこうかな。行こうと思ってるとこあるから」

「そうか。じゃあまた今度な」

「そうだね。また誘ってよ」


 それから僕も翔琉も仕事へと戻り黙々とすべき事を消化していった。

 その日、僕は仕事を持ち帰り早くに退社した。それは日が暮れる前にこの場所へ来る為。今では家じゃなくこの場所に居る時が一番彼女を近くに感じられる気がする。

 それは言ってしまえば単なる黒交じりの灰色をした石の塊。文字の刻まれた墓石でしかない。でもこの場所で目を閉じれば目の前に彼女がいる気がするんだ。彼女が好きだった花を供えて、たまに好きだったスイーツとかを供えたりして。そうする事で今でも君の喜ぶ顔が目に浮かぶ。君の声が聞こえるような気がする。今でも君を感じるんだ。


「陽咲」


 でも実際もう君はここにいない。名前を呼んでも答えてくれない。あの笑顔はもうそこには無い。同時にどうしようもなく現実的なその事実を実感させられてしまう。

 目を閉じてた時とは打って変わって、孤独感が溢れ出すんだ。彼女はもういない。その事実が鈍器の様に僕を殴る。それは一時の夢で、幻想。目を開けば目の前には無表情の墓石があるだけ。心の奥底には今でも彼女が居て、彼女を感じる。でも手を伸ばし墓石に触れてもそこにあるのは、冷たく滑らかな石の感触。


「陽咲……」


 これまでも――そしてこれからも僕の胸から彼女が消える事はない。いつでもそこにいて、いつでもあの大好きな笑みを浮かべてる。あの大好きな表情を浮かべてる、あの大好きな何てことない横顔が見られる、そこにはずっと大好きな陽咲が居てくれる。

 でもやっぱり僕はこの手で触れたい。この腕で抱き締めたい。あの声を聞きたい。心安らぐ匂いを感じたい。心とは別に全てで彼女を感じたいんだ。


「やっぱり君が恋しいよ」


 陽咲を思い出していただけでいつしか声は震え、鼻根に突くような感じがしたかと思うと、温かな雫が頬を伝っていた。


「会いたいよ。陽咲」


 内から溢れ出す彼女への想いは泪だけでは収まらず言葉として口からも零れ落ちていた。

 でもこの泪も言葉も想いでさえ、もう君には届かない。こんな僕を笑ってくれる君はもういないんだ。それをより強調するように冷たくなり始めた風が肌を撫でる。肌どころか心にまでその冷たさは染渡り、淋しさを色濃く感じさせた。

 それからどれくらそこに居んだろう。ただ見えない君を見て――いや、君との想い出に浸り、君を近くに感じて少しでもこの気持ちを誤魔化し続けて時間の感覚なんてなかった。その場を立ち去った時には何時間も経っていたかもしれないし、数十分だけだったかもしれない。分からない。ただ僕の中にあったのは、横を歩く君がいないという慣れない違和感と家に帰ればいつものように君が待っていてくれてるんじゃないかっていう虚しい期待。

 彼女の元を後にした僕はそのままお寺を後にしようとしたが、ふと今まで何度も通っているはずなのに気が付かなかった横道に目が留まった。ひっそりと伸びた石畳は小さな林の奥へと伸びていたる。

 気になった僕は丁度傍で掃除をしていた和尚さんに尋ねてみることにした。


「すみません。そこの道の先って何があるんですか?」

「あぁ。その先には随分と昔に住職が済んでいた家がありますよ」

「なるほど」


 小さく頷きながら少しだけ興味が湧いた。


「そこって見てみても大丈夫ですか?」

「えぇ。ですが建物自体、古いですので近づいたり中へ入ったりするのはご遠慮ください」

「分かりました」


 僕は最後に会釈をするとその道へと足を進めた。薄暗い中まるで別世界へと続くように真っすぐ伸びる人一人分の道。僕はどこか昔を思い出していた。家の近くから少し離れるだけで大冒険にでも出たような気持ちなっていた少年時代を。

 だけどそんな気持ちもすぐにどこかへ飛んで消えてしまった。


「わぁ」


 無意識の内に声を零してしまう程の景色がそこには広がっていたからだ。和尚さんの言っていた建物は右手に建っていたが、僕が真っすぐ見つめていたのは別のものだった。

 世界から切り離されたように静寂に包み込まれたこの場所に、欄干越しで広がる街と山と海の景色。更に水平線に浸かる夕日が辺り一帯を色鮮やかに焼き、それはより一層見る者の心を奪う絶景へと姿を変えていた。

 蜜に誘われる蝶のように一歩また一歩と視線はズラさず歩を進めていく。そして緩徐とした足取りで柵へと近づく頃には、僕の視界はその絶景で埋め尽くされていた。言葉は要らない、理由も要らない。僕はただ満足ゆくまでそれを眺め続けた。

 でも段々と感動が落ち着きをみせ始めると、気が付いてしまった。最初の一目は嘘じゃない、かといってその後も嘘じゃない。それは確かに絶景で、僕は確かにその景色に目も心も奪われた。

 でも実際、心のどこかでは陽咲のお墓参りで突き付けられるように感じたあの淋しさを少しでも忘れようと、僕はその目の前の絶景を見続けていたんだ。暗示をかけるようにただ眼前の景色で意識を埋め尽くした。

 その所為か僕はふと我に返るとどこか申し訳ない気持ちになりながらも、あの端にやっていた感情を思い出してしまった。


「この景色を陽咲と一緒に見れたら良かったな」


 同時に隣で恍惚とするような声を漏らし夕焼け色に染まった横顔を思い浮かべる。あまりにも愛らしくて、あまりにも見たくて、僕は思わず横を見た。

 だけど当然ながらそこに彼女はいない。それが余計に虚しさを刺激した。

 すると、ふとそのまま視線は和尚さんの言っていた建物へ。僕は古びこじんまりとしたその建物を見つめながら柵から離れた。

 そこに建っていたのは、どれ程の年月を人に忘れられそこで過ごしてきたのか想像すらし難いような建物だった。


「いつの物が訊いとけばよかったなぁ」


 若干の後悔とこの建物を目に出来た幸運の混じり合った気持ちを抱えながらそう呟いた。僕は別にそう言う歴史あるお城とかを見て回るのが好きなタイプじゃない。でも実際に目の前にしてそれも悪くないかもと思える程にはその建物は言葉に出来ない何かを感じさせてくれた。

 それから夕焼け景色の後に人が皺を重ねるが如く古びた建物を気がすむまで堪能した僕は、段々と辺りが暗くなり始めてるのに気が付きそろそろ帰ることにした。

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