case10.時田一の罪〜過去の幻想に沈む〜

 彼女は僕の全て。

 彼女は僕の唯一。

 

 今でもあの柔く細い声で「わんちゃん」と呼ばれたなら、僕は命さえも差し出し、彼女の足先にそっと口づけを落とすだろう。




 そう呼ばれ始めたのはいつの頃からだったか。


 たしかそうだ。彼女と僕が小学校に入学した頃。漢字を勉強し出した彼女が、僕のノートに記入された名前を見て「はじめちゃんの名前は数字の"いち"なんだね!」と、世紀の大発見とばかりに目を輝かせた。

 そしてそのすぐ後にさらに重大な発見をしたように「あっ!」と閃きの声を上げる。


「"いち"は英語で"ワン"でしょ?」


「今日から"わんちゃん"ね!」


 犬みたいでかわいいね、と蕩けた笑みを見せた彼女に、僕の心は射抜かれたのだ。




 家も近所で幼稚園から一緒、通学も一緒。僕と彼女はいつも一緒だった。彼女の一番の友達は僕だと自負していたし、事実彼女もそう言ってくれた。それなのに、いつの頃からか僕は彼女の横に並ぶことに申し訳なさや気後れを感じるようになった。



 最初に違和感を覚えたのは小学4年生の時。クラスの男子が「坪井ってかわいいよな」と言っているのを聞いた時だ。あ、そうか。彼女は僕だけのものではないのか。当たり前の事実をまざまざと突きつけられ、その衝撃に吐きそうになった。いや、実際吐いた。

 教室は阿鼻叫喚だった。「きたねー」と心無い言葉を口にしたのは元凶である男子生徒だ。あ、僕こいつのこと嫌いだわ、と咽ながらも確かに思った。ゴホゴホ、と咳込む僕に誰かが「先生呼んでくるからね」と告げて教室を飛び出した。そのすぐ後、飛び出した生徒と入れ替わるように教室に戻ってきた彼女を視界の端で捉える。


「わんちゃん!どうしたの?!」


 あぁ。彼女が僕を呼んでくれた。それだけで胸のすく思いがした。「わんちゃん、大丈夫?」と嘔吐した僕のそばに駆けつけて背中をさすってくれる。

 わんちゃん、と心配そうに僕を覗き込み、汚れた口元を拭うようにと彼女の綺麗に折り畳まれたハンカチが差し出される。本当は躊躇しなければいけないのだろう。だけど僕は綺麗なものを汚すその行為に一種の興奮を覚え、躊躇う事なくそのハンカチに手を伸ばした。




 誠に残念なことだが、彼女を可愛いと思うのは僕だけではなかった。どんどん美しく聡明に成長していく彼女の周りにはいつも大勢の人がいた。誰も彼女の輝きには敵わないが、その取り巻きも所謂上位カーストと呼ばれる人たちだった。

 良く言って平凡、実際はそれ以下の僕は彼女に近づけなくなった。断っておくが、なにも彼女の方から距離を置いたのではない。これは彼女の名誉のためにはっきりと言っておく。彼女はしょうもない人間のランクづけを無意識下でしてしまうような矮小な人ではないのだ。

 僕が勝手に卑屈になって、自分から離れていった。なのに彼女は変わらず僕を「わんちゃん」と呼ぶ。彼女独特の呼び方は、周りに"犬扱いされるほどの人間"と誤解を与えているようだったけれど。そんなことは気にならなかった。

 彼女は僕を同等に扱ってくれたし。それに事実、彼女と比べると僕は人ではなかったからだ。彼女に犬扱いされるならば、それは幸甚の至り。今すぐお腹を見せて服従しよう。



 僕は性格も暗いし、運動も苦手だった。ゲームも下手くそだし、友達も上手く作れない。もちろん顔は並以下だし、身長だって平均より低い。そんな僕も唯一勉強だけはできた。

 幼い頃から遊び相手といえば彼女だけ。そんな僕は持て余した時間を全て勉強にあてた。将来の夢のためにというわけではない。彼女の横に並ぶための唯一の武器になるかもしれない、と思ったからだ。

 しかしこの勉強の出来が僕と彼女の進路を隔てた。僕は私立中学に、彼女は地元の公立中学に進学したのだ。絶対に地元の中学に行くと親に啖呵を切ったが、それを親づてに聞いた彼女が「わんちゃん、あそこの制服似合いそう!制服デートしようよ」と無邪気にはしゃいだので、僕は私立中学への進学を決めた。


 中学に進学してからも彼女はますます美しくなった。神々しさまで携え始めた彼女は、文字通り僕の神様だった。お腹を見せるなど生温い。跪き足の先を舐めさせてもらえるなら、命さえ差し出すことも惜しくはない。彼女は「いらない」と突っぱねるだろうが。僕が彼女に差し出せるものはなんだって差し出す所存であった。



「わんちゃん、先輩に告白されたの」


 いつも通り、眩しくて目が眩みそうなほどの笑顔で彼女はそう告げた。中学2年生の秋だ。今までだってさんざか告白はされてきただろう彼女が、頬を染めながら僕にそう告げたのは初めてのことだった。

 ガツンと鈍器で殴られたような衝撃。そのすぐ後に張り裂けそうなほどの拍動と、息ができないぐらいの動悸。僕の神様が穢れてしまう。人より少しばかり顔が良くて、サッカーが上手いというだけのしょうもない男。彼女はそんな有象無象などが汚していい存在ではない。しかし僕が汚していい存在でもない。皮膚が白くなるほどに強く拳を握り締め、「よかったね」と僕は笑った。





 それからの僕は以前にも増して勉学に打ち込んだ。それしかしていないと言っても過言ではないほどだ。その甲斐あってか有名進学高校に入学、難関大学を卒業、そして大手と呼ばれる企業に就職した。

 たったそれだけ。たったそれだけで僕の価値は跳ね上がった。



 日曜日、母親に呼び出されたので久しぶりに帰省した。どうやらお見合いの話を持ちかけられたらしい。今どき?と思わず顔を顰めたが、一向に浮いた話のでない息子の将来を心配しているのだろう。その話を適当に流し、「コンビニに行ってくるよ」と家を出る。どれだけの良縁であっても僕にはすでに唯一がいるのだ。やはり彼女以外を愛せるとは到底思えなかった。しかしその彼女とは中学2年生のあの日以降、一度として顔を合わせていない。友達もいない僕は、風の噂でさえも彼女の今を知ることはなかった。


「あれ?もしかしてわんちゃん?」


 うかがうような声だった。だがしかし、その声は確かに僕を「わんちゃん」と呼んだのだ。

 振り向くのが怖い。だけど今の僕ならば、彼女の横に立つことを赦されるかもしれない。


「あー?わんちゃん?犬かよっ!」


 ギャハハ、と下品な声が僕の耳に届き、背筋をぞわりと撫でる。躊躇なく振り向けば、僕の唯一の存在、神の横にはチンピラ風情の男が並んでいた。

 変わらない。彼女の美しさは今もなお変わらないのに、どうしてこんな下品な男をかしづかせているのだろう。きみに相応しいとは思えない。


「ちょっと、失礼でしょ?ごめんね、わんちゃん」


 久しぶりだね、元気だった?という彼女に頷き返し、僕は気づいた。彼女は穢れてしまったのだ。他人を嘲るような男に自身の心を差し出した彼女はなんて愚かなのだろう。彼女はもう僕の唯一ではない。


 学歴、勤め先、年収をチラつかせれば、曲がりなりにも彼氏であるあの男を裏切り、簡単に股を開く下品で下劣なただの女だ。

 僕の下で嬌声をあげるその女はうわ言のように「すき」と「わんちゃん」を繰り返した。薄っぺらい言葉と薄寒い愛称。やはりこれは僕の唯一ではない。僕の唯一は記憶の中で「わんちゃん」と笑う彼女だけだ。

 

 僕が突き上げるたびに恍惚な表情を浮かべるこの女に利用価値があるとすれば、それはあの頃の彼女の面影が僅かでもあるということ。

 笑うと下がる眉。片方だけ僅かに上がる口角。照れるとすぐに赤くなる耳。決意をした時、下唇を噛むところ。


「ねぇ、わんちゃん。これからも会える?」


 少し言い淀んだのち、女は上目遣いをした。


「僕の犬になれる?」

「……え、いぬ?」

「そう、犬。これからはきみが『わんちゃん』だよ」


 僕の唯一はもういない。彼女は悪魔に心を売り渡し穢れてしまった。

 僕は思い出の中だけで彼女に会えるのだ。眩しくて目が眩みそうなほどの、純白。穢れなき白。


 僕の唯一の成れの果ては、跪き、僕の足にそっと口づけを落とした。

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