一緒に居ようよ

須能 雪羽

第一幕:出逢いは間違い?

第1話:【晴男】そうだ、旅に出よう

 キャンプに行こう。

 三十二のこの歳まで、やったこともないのにそう思った。だから道具を揃えるため、開店を待ち構えて飛び込んだ。クリスマスで彩られた、アウトドアショップに。


 どこか遊びに行った。というのさえ、いつが最後だったか。毎日が残業で、布団に入るのは日付けが変わってから。

 毎朝五時に起きなきゃいけないのに、目が冴えて寝られない。だから眠くなるまで一時間ほど、スマホでゲームか動画を見る。


 これと趣味もなく、ゲームの課金が月に二万円くらい。それが逆に良くないんだろう、どれも半年で飽きてしまう。

 飽きないのは、キャンプ動画。芸能人や露出の高い女の子が、わちゃわちゃとやってるのは面白いと思わない。


 むさいオッサンとかストイックな感じの女性が、黙々とやってるのがいい。

 ライターとかカセットコンロとか使えば楽なものを。広げればすぐに使えるテントや、背景に見切れたバンガローなんか使えばいいものを。


 非効率を楽しむ、みたいなのがいい。たぶん面白いというより、落ち着くんだ。

 それでいて「グラム千円の肉を買ってみました」とか言って、ガラス細工みたいに扱う貧乏臭さが安心する。


 とは言え俺もやってみよう、と考えたことはなかった。それがどうして、ここに居るんだろう。

 振り返るときっかけは、まず昨日の夕方だったと思う。


 *


「何考えてんだ空上そらうえ!」


 定時の三十分前に、店長の雷が落ちた。あの人はきっと、その一文が俺の名前と勘違いしてる。話しかける時、必ず最初に言うんだから間違いない。

 俺の名前は、空上晴男はれおなのに。


 ただあの時は、叱られて当然だった。大きな、と言うか恥ずかしいミスをしたのはたしかだ。

 パートの店員さんたちにクスクス笑われ、お客さまにも怪訝な目で見られて。解放されてすぐに、退勤の打刻をしてしまった。


 やけ酒もやけ食いもせず家に帰り、いつもはまだ仕事をしてる時間に布団へ潜った。

 隣の部屋から聞こえるドラマの声に耳を塞ぎ、おそるおそるスマホを見た。

 でも誰からの連絡もない。


 良かった、なのか。怒るなら早く済ませてくれ、なのか。感想が自分でもよく分からなかった。

 ともあれ、もうスマホを見なくていい。もう一度画面を見たら呪われるくらいの勢いで遠ざけ、頭から布団をかぶる。


 睡眠時間をたっぷり取れるのは久しぶりだけど、寝付けなかった。修学旅行でなぜか買った金色の剣を引き、部屋を真っ暗にしても。

 何度も、何度も、壁の時計を盗み見る。やがて毎度の就寝時間を過ぎ、午前三時を回った。すると間もなく、意識が遠退いた。

 睡眠時間を削るのが義務と、俺の身体には刻まれてるのかもしれない。


 五時。ほとんどちょうどに目覚めたけど、いつもより一段と身体が重い。

 起きなきゃ、起きなきゃ。と自分に言い聞かせ、三十分くらいでようやく布団を出た。

 朝飯を食べる気分じゃなく、時間もない。着替えだけして、顔も洗わずに出かける。


 今朝も空が重かった。最近ずっとだ。

 延々と続く、白けたアスファルト。その両際から立ち上がる、セメントのグレー。せいぜい三、四階建てのビルが、低く垂れ込めた空をますます狭く見せる。


 塗り分けする気のない凍った景色に、ため息しか出ない。青い絵の具を切らしたのか、それともイラストアプリのエラーか。

 ――絵師、ちゃんとしてくれよ。課金でどうにかなるなら、するし。


 課金先は、神さまだろうか。そもそもその神さまに、やる気がなければどうしようもないけど。

 なにしろ俺がそうだ。昔はあり余ってたやる気が、もうどうすれば出てくるのか分からない。


 ――出勤したくねえ……。

 アイロンのかかった白いシャツと、黒いズボンを脱ぎ捨てたい。まだ二シーズン目なのに、ペタンコになったダウンが気怠い。

 職場じゃなく、葬式にでも向かう気分だ。


 大通りに突き当たり、歩道を左に折れる。するとすぐ、バス停のある駅に着く。

 バスのロータリーを半分囲うように、パン屋だの旅行代理店だのが並ぶ。レンガ調の歩道と、ポプラとケヤキの植栽が、ちょっと洋風のセレブな空間を気取って見せた。


 ごそごそとポケットを探り、スマホに目を落とす。午前六時過ぎ。時刻の下へ小さく、十二月二十四日と出ている。

 今年は金曜日で浮かれる奴も何割か増しだろうに、夜は雨になりそうだ。


 ホワイトクリスマスじゃなくて、ざまあ。とは思わない。

 人をけなすのは嫌いだ。自分の気持ちが苦しくなるし、伝わればケンカにだってなる。

 それなのに店長ときたら――。


「あー……」


 ため息だけのつもりが、声も漏れた。乗る予定のバスが、もう待ち構えている。重くなった足が、どんどん歩幅を狭めていった。

 ――乗りたくねえ。

 ここが始発で、発車時間には余裕がある。でも足を止めてしまっては、永遠に乗れない。


 追い越す人の巻いた、冷たい風。連れ合って歩く人の、笑い声。

 パン屋の磨かれたガラスの向こうへ、コーヒーを飲む女性が二人。


 ――俺、あそこに行けるのかな。

 片方で五百円の靴音が止まる。

 充実した時間。優雅なひと時を過ごす、彼ら、彼女ら。俺とを隔てる何かが、絶望的な厚みを持って見えた。


 口もとへ運ばれる温かそうなパンを、じっと眺める。ちょうど良くトーストしてあって、たぶんレタスとハムが挟まってて。

 腹の減った感覚はまるでないけど、俺は朝飯抜きだ。


 きっと妙な目つきになってたんだろう。気付くとその女性が、俺を見ていた。

 慌てて目を逸らし、新商品のポスターを見てましたと装う。


 数秒。呆れたような怒ったような表情に、気付かないふりをした。すると女性は、友人らしき隣の女性と笑う。横目でちらちら、俺に視線を向けつつ。

 ――くそ、なんなんだよ。


 怪しまれるのは当然だ。悪態をついたのは、俺自身に。

 たった今のことを、なにやってんだじゃなく。俺って人間は、なんなんだと。


 いつも真面目なつもりなのに、うまくいかない。たいてい今みたいに、原因もはっきりしてる。

 一つずつの失敗は、落ち込むほどじゃなかった。でもそれだけに、どうして防げないか悩む。

 ――やらかす前に、なんで気付けないかな。


 店長が叱るのも当たり前だと思う。でも昨日、あのまま居残るのは恥ずかしくてつらくて、無理だったんだ。

 勘弁してくれよ、と。自分を甘やかす言葉ばかりが湧いてくる。


「ん、ドイツ……?」


 ふと、隣の旅行代理店が目に入った。ガラスの向こうに、たくさんのパンフレットが貼り付けてある。海外旅行はしたことがないし、ドイツという国に思い入れもない。

 けど、入浴剤を入れたような青い湖と、真っ白な城の建つ丘が綺麗だと思った。太い木々ばかりの森が、気持ちよさそうだと思った。


 ――ここなら。

 薄ぼんやりと、垢抜けない短髪の男が湖畔に立つ。ガラスに映った俺の、亡霊みたいなこの姿を、色濃く現実にならできる。

 それが逃亡なのは、百も承知。でもよく言うじゃないか、逃げることは恥じゃないって。


「旅に出よう」


 ガラスの上のほうに飾られたPOP文字を読み上げ、俺は歩き始めた。バスの乗車口を横目に、コンビニへ。


 ――逃げよう。旅に出よう。どうせサボるなら、思いっきりやりたいことをしよう。

 ATMの限度額いっぱいを下ろした俺は、レンタカー店へ向かった。本当のドイツは無理でも、きっと近い景色はある。そこへ行こうと、心に決めて。

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