テープが終わるスロウドリフト

1/6

 こうしていると、全てがどうでも良くなるみたい。

 川辺なんて、何年も来たことがなかったのだけれど、いざ久しぶりに訪れると、夏の気温の中でも、ずっとここにいても良いと思うくらいに、居心地が良かった。夜なので暗くてほとんど何も見えないが、きっとロケーションだって良いだろう。

 隣に、この女がいなければ。

「アイス、食べなさいよ。溶けるわよ」

「わかってるわよ……」

 中兼由麻の横顔が、ぼんやりと夏の空気の中に浮かんでいた。彼女は私から見て右を向いている。つまり、じっと見えもしない川を睨んでいた。夜中ともなると、いつものどうやって巻いているのかわからない髪の毛も、やたらと大人しかった。

「ねえ、本当にわからないの? あのカセットのこと」

 そう問われる。口に、さっきコンビニで買っていたアイスを持っていったり、持っていかなかったりしている。

 カセットの謎については彼女の言う通り、私なんかでは微塵も解けそうもないので、あまり思い出したくもなかった。そもそもの話、こいつは知らないだろうけど、私に推理力なんてものは無い。

「……情報がまだ足りないのよ」

 私は砂利の上に座ったまま、中兼の方も見ないで、適当に答えた。流れる川を見つめている方が、幾分か面白いのだろうか。

 せせらぎが、か細く聞こえる。

「あんた、探偵を気取ってるなら、さっさと情報を集めて、推理しなさいよ」

 中兼は笑いながら、小馬鹿にしたように言う。

「気取ってないわよ。ゲームのことなら、中兼のほうが詳しいんじゃないの」

 私もようやくコンビニで買ったアイスを、開封して食べた。何も考えないでバニラ味にした。理由は、少しもない。

「あんたさ、プロになりたいと思っているでしょ」

 突然、雑談にしては嫌な質問を、中兼が飛ばしてきた。

「……なんでそんなこと訊くの」

「前から思ってたからよ。どうなの?」

「…………思ってない」

「間があったから嘘ね」

「うるさいわね」私は彼女を睨む。「そういう中兼はどうなの」

「あんたさ、中兼中兼って、知り合って三年くらい経つんだから、いい加減に由麻って呼びなさいよ」

「はあ?」

 なんの脈絡もなく、そんな馬鹿みたいなことを口にする彼女に、私は首を傾げて素っ頓狂な声を漏らしてしまう。

「……あんたって、私と仲良くなりたいわけ?」

「別に」中兼は、すねたようにそう呟いた。何故か私は、抱えなくても良い罪悪感を、そこで覚えた。

 手元のアイスを舐めた。冷たい。もう既に、溶け始めていた。

「……私だって、プロになりたいわよ」

 そう中兼が、観念したみたいに漏らす。暗いせいで、本当に彼女の口から発せられたのかすら、よくわからなかった。

「……なればいいじゃん」私は答えた。

「それができる立場じゃないのよ。私達は、美しい思い出のために技術を磨いているに過ぎないんだわ」

 彼女の声色が、寂しそうに震えているのを、私の耳は聞き取った。

 せせらぎに、埋もれてしまえばよかったのに。



 発端は、先週のことだった。

 この日も部活で、いつものように中兼が取り仕切って今後の活動方針を決めているところだった。私は面倒くさく思いながらそれを聞いていた。

 話が進んでいくと中兼は、この間行われた公開ジャムセッションの音源を、全員で聞こうと提案した。品評という意味合いも兼ねている、とも付け加えた。

「前にも言ったと思うけど、この成果によって、来月の外部演奏会の出演テーブルを考えるから。それを今、聴きながら決めて、発表します」

「でも部長、当日も聞いてたんじゃないんですか?」後輩が噛みつきたいのか、中兼に口を挟んだ。

「その時にも大まかに出演順は決めてるけど、ここでみんなの様子も見ながら、最終的に詰めていくわ。多少の入れ替えをする程度だと思うけど、一人で決めるよりは良いと思って。ちなみに、出られないバンドはいないから、安心して」

「なら、良いですけど……」

 中兼は、スピーカーの準備を始めていたが、私の頭はもはや正気ではいられなかった。

 自分の演奏を聴くなんて気持ちが悪い。はっきりとした吐き気すら感じる。こいつらには、一生かかっても理解できないような感情だろう、と思った。

 しばらくして中兼が音源を流し始めたときも、自分の番が回ってくる恐怖で、頭がおかしくなりそうだった。

 隣の紗良を見るが、私なんかとは違って、心の底から楽しそうに音源に聞き入っていた。その神経こそ、私には一生かかっても理解なんて出来ないだろうな、と何処か負けたような気分になった。

 本当に、吐きたくなってきた。

 助けて欲しいとさえ感じた。

 だというのに、部員の一人が私に話しかけてくる。前回の推理が広まって以来、私の部内での扱いが、格段に良くなっていた。けれど、こうして仲良くもない女に、気安く話しかけられるのは、どちらかといえば面倒以上の感想はなかった。

「ねえねえ、この日の網城のプレイって、結構すごかったと思ってるんだけどさ、網城ってウェス・モンゴメリー意識してるの?」

 敬語ではないことから、この女が私と同じ三年だ、というのを今知った。彼女の隣の友人らしい女達も、私の返答を待っていた。

「……いや、ピックを使うのが、面倒なだけよ」

 笑顔すら作らないで、私は本当のことを教えた。

「へえ、面白いね網城って。好きなギタリストとかいるの?」

「デイヴィッド・ギルモア」

 なにそれ、誰、知らない。なんて言いながらこいつらはけらけら笑った。知らないなら聞くなよ、と私は心の中で悪態を十回はついた。

「奈津乃、みんなに慕われてんじゃん」

 紗良が少し面白がるようにして、私に耳打ちをした。

「……困ったものだわ」

 くだらない会話をしていると少しくらいは気が紛れたが、結局私は我慢ができなくなって、ついに立ち上がって中兼を呼んだ。

「あの、ごめん中兼部長。ちょっとトイレ……」

「え? これからあんたたちの番だけど?」

「じゃあ飛ばして」

 部長の答えも聞かないで、私は部室を飛び出した。呼び止められたような気がしたが、それどころじゃなかった。

 トイレに駆け込んだ。個室には入らないで、鏡の前で自分の顔をうんざりしながら見つめた。崩れている髪型を、直している余裕すらなかった。

 長いため息を吐く。

「聞いてほしくないのよ、あいつらに……」

 自分の演奏を聞きたくないのは、自分の演奏を認めたくないから。自分自身が、とにかく嫌いだから。

 あいつらが私より優れているなんて、逆立ちしたって認めたくはないのだけれど、一方で自分がどれだけ無価値なのかは、悲しいくらいに理解している。

「……誰よりも聞きたくないのは、自分なのにね」



 トイレでしばらく時間を潰してから、頃合いを見て部室に戻ると、ジャムセッションの話は全て終わってしまっていて、いつの間にか私の知らない話題に移り変わっていた。

 黒板には、出演順が中兼のまっすぐな字で書かれていた。バンド名が並べられていたが、どうせ出ることがわかっているのだからと、私はどうでもよくなって文字を読むのを途中でやめた。

 私がさっきまでいた椅子に、そそくさと腰掛けようとすると、紗良と楽しそうに話している部員の女が、私を見つけると気がついたように、声を掛けてくる。待ち構えていたみたいだった。

「ねえ奈津乃。ちょっとさ、この間みたいに推理を頼まれてくれないかな? なくしたものがあるんだけどさあ」

「ああ……」

 またか。と私は聞こえないように、舌打ちを漏らした。

 あれ以来、私のもとに、簡単な捜し物をしてほしいというお願いが持ち込まれるようになった。当然、請けたことは一度もないのだけれど、それが逆にもの珍しさを生んでいるのか、日が経つにつれて依頼の数が、断るのが嫌になるくらい増えていった。

 実は推理なんて出来ませんよ、と口にする勇気すら、私にはない所為もあった。

「情報が揃ってないと、何も出来ないわよ」

 それでも、いつもの調子で首を振って断ると、相手もすぐに諦めた。本当に困っていると言うよりも、面白半分で私に持ちかけているに過ぎないのだろう。

「うーん、じゃあ、なくした状況とか思い出しとくから、今度頼むね」

「ええ、今度ね……」

 廊下の先から足音が聞こえてきて、しばらくすると、扉を開けて顧問教師が気だるそうな顔を部員たちの前に晒した。

「船元先生、こんにちは」

 気づいた中兼が、すぐに頭を下げて挨拶をする。船元と呼ばれた顧問教師は、それに社会的な生活から身につけたらしい、慣れた動作で答えた。その最中にも、面倒くさそうな表情は消えなかった。

 彼女は船元美空。短めの髪が、少し年齢不相応だが可愛らしいところが腹立たしい。そのうえで、いつも似合っているスーツを着込んでいた。彼女に似合いすぎて、特注でもしているんじゃないか、と疑ったことがあった。

 船元は、ジャズ研究部の顧問だが、とくに私達部員の活動には、余計な口を挟まなかった。部活に訪れることもさほどない。その理由を、一度も尋ねたことはなかったが、単にやる気が無いのだろう、と私は結論づけていた。

 そして、あの銀川せれな先生の友人であり、私をせれな先生に紹介した本人が、この船元美空だった。

 当時を思い出す。あのときは、突然彼女に話しかけられて、随分と驚いたものだった。聞くと、お前はギターレッスンに興味があるか、という話だった。はっきりと言ってしまえば、少しも興味はなかったのだけれど、断ると後で扱いが悪くなりそうだったので「とりあえず見学させてください」とだけ伝えた。すると船元は、すぐに車でせれな先生の家へ私を連れて行った。

 ――せれな。この子、良いと思うんだけど、気に入ったら面倒を見てやってくれない?

 ――ふーん。良いわ。あの子も、一緒に練習する子がいると、喜ぶと思う。

 その日は軽くどういった内容なのかという説明を受け、次の週から本格的なレッスンに呼ばれたのだが、せれな先生に『あの子』と呼ばれていた生徒の影は、なかった。

 ――あの子、辞めるって。ああ、奈津乃ちゃんが来るから辞めたんじゃないから、気にしないで。家庭の事情だってさ。

 その時のことを思い出すと未だに、してもいない万引きを咎められたかのような、嫌な気分になった。結局せれな先生が、私の前にどんな女を生徒にしていたのか、教えてくれたことはなかったし、私も尋ねるのが怖かった。

 誰だろうか。ジャズ研ですら、そもそもこの学校の生徒ですら無いのかもしれない。

 私が昔を思い出している間に、船元は夏の予定を、口で説明しながら黒板に記していた。飲食店での外部演奏会がある、という既に知っている事実が顧問の口から語られたくらいで、特に真新しい話は出てこなかった。

 船元先生は、改まって全員に向かって口を開いた。

「みんな。お客さんの前で演奏するんだから、趣味とはいえ練習はしっかりやってね。なにかわからないことがあるなら、私が見てあげるから、遠慮なく聞いて」

 聞きながら、私はギターのことを想像して、指を固く握ってから開いた。

 その様子を、部員の誰かに見られる。

「網城、やる気だね」

「……まあ、そりゃ、お客さんの前に出るわけだし……」

 そうだ。私の演奏は、お前たちなんかじゃない、もっとちゃんとした人間に聞いてもらうためにあるに決まっているんだから。



 その日は、メンバーの三人でファミレスに行って、公開ジャムセッションの反省会をして、そのまま解散した。

 ふたりとも、自分は実力をきちんと出し切ったと話していたが、肝心の出演順は中兼のバンドの一つ前だった。つまり、トリの直前ということになる。その並びは、中兼の嫌がらせのようにも感じるし、あの上手い中兼の後に演奏をすることに比べれば、先にやってしまう方が、気持ちとしては楽なのも、一つの事実だった。結局、中兼がどういう意図でそこに私達を置いたのかは、推測すらも出来なかった。

 翌日になって、昼間から私はクーラーの効いた部室でくつろいでいた。テストも終わり始めて、もう来週からは夏休みだという実感を、この時期になると見せつけられるみたいに感じる。

 とにかく、家にいることが苦痛な私は、夏休みというものに対して、夢も希望も持ち合わせていなかった。例えるなら、線路の上に縛り付けられているみたいな心境だった。死ぬとわかっているのに、避ける方法がない。

 部活は夏休みといえども週に何度かやっているので、そのときは朝から顔を出せばいいが、そうでない時はどうすれば良いのだろう。何もなければ、炎天下の公園にでも行って、漫画でも読んで時間を潰す他はなかった。なんなら、せれな先生にお願いするのも良い。家にいたくないのでお邪魔してもいいですか、なんて恥ずかしくて頼みたくもないけれど、熱中症で倒れてしまうよりは、ずっとマシだった。

 ギターを腹に置いて、ぼーっと窓の外に浮かんでいる、真っ白い雲と青空のコントラストを、馬鹿にしたように眺めていると、紗良が部室に乗り込んできて、私を見つけると開口一番に言った。

「ねえねえ、そういえば奈津乃、また探偵ごっこしたい?」

 紗良の嬉しそうな顔に気圧されて、私は視線を背けた。

「別に、したくないわよ……」

「そんな人間が、あんな推理なんて披露しませんよ」呆れながら、紗良は続けた。「奈津乃はテレビゲームってやったことある?」

「テレビゲーム? そうねえ……昔にちょっとだけ」

「スーパーファミコンは?」

「なにそれ」

 紗良は、そのスーパーファミコン、というゲームをするための機械のことを、細かく私に説明した。

 まとめると、九〇年代の初頭に発売されたゲーム機だった。私達が、まだ生まれてもいない頃だった。有名なソフトをいくつか紹介されたけれど、ひとつだって知っているタイトルはなかった。

 ソフトというのも、ディスクなどではなく専用のカートリッジで、インターネットでその画像を調べても、実際どんなものなのかあまりうまく想像もできなかった。

 なぜ紗良が、そんな太古のマシンの話をするのかが、いまいち飲み込めなかった。

「その、スーファミってのがどうしたのよ」

「実はね、お父さんがそういうレトロゲームが好きで、自分で買ったり、いらないって人からもらったりして、ちょくちょく集めてるんだけど、その中に変なソフトがあるんだよね」

「……どんな?」

 実物を見たこともないのに、なにが変なのかどうか、わかるものなのか疑問だったが、私は付き合いで尋ねた。

 紗良は続けた。

「パッケージはアクトレイザーなのに、起動してみると中身は大貝獣物語なんだよ」

「……ちょっと待って」私は頭の中で、今の一文を整理した。「えっと……アクトレイザーって言うソフトなのに、中にその大貝獣物語ってのが入ってたってこと?」

「うーん、なんていうか」紗良も詳しく知らないのか、少し困っていた。「カートリッジにどんなソフトなのかシールが張ってあって、当然それで何のソフトなのか判別できるようになってるんだけど、中の基板が、どうも大貝獣物語になってるらしくて」

「……つまり、ずぼらな人が違うCDのケースに別のCDを入れるみたいなってこと?」

「あー、ちょっと違うかな」紗良は首を振ってから言う。「こういうカートリッジって、特殊なネジだから、専用のドライバーがないと開けられないんだよ。普通に家庭で扱われている分じゃ、そんなことは普通は起きないんだよね。つまり、意図的に入れ替えられてるんだよ」

「出荷時のミスなんじゃないの」腕を組んでから私は適当に答える。「家庭じゃ開けられないネジなんだったら、工場の時点での問題じゃないの? 隣のラインの製品と間違えちゃったとか」

「残念だけど、このふたつは開発会社も販売会社も違うんだよ」

 紗良は、そしてにこにこしながら私に向き直った。

「ねえ奈津乃、これは私からのお願い。このカセットの謎、解いてくれない?」

「そんなこと言われたって……レトロゲームなんか専門外よ」

 深く考えもせずに、面倒そうだからとやんわり断ろうとした私を、紗良が引き止めた。

「まあ、それは私も協力するよ。これでもお父さんと遊んでたことあるから、同世代よりはちょっと詳しいはずだよ。それに、お父さんも昔からこれのことが気になってるって言ってたんだよ。このソフトは人から貰ったらしいんだけど、そのくれた本人に尋ねても、忘れたっていうだけなんだって」

「へえ……」私はとりあえず息を漏らした。「でも……そんなのって、実物を見ないとなんとも言えないと思うけど」

「ああ、お父さんの古いゲームは、今は全部うちの別荘に置いてあるんだ。丁度、この夏は使わないから、奈津乃とあと美保子も誘って見に行こうかなって」

「べ、別荘?」

 金持ちの美保子ならまだしも、紗良の家が別荘を有するくらいに裕福には見えなかったので、失礼ながら少しだけ驚いた。

 言いながら、にこにこと笑顔を隠しきれていない紗良を見ていると、段々と彼女の思惑がわかった。紗良は、私達をそこに連れていきたいだけだろう。

「わかった。紗良、そこでバンドの合宿でもしたいんでしょ」

「さすが、奈津乃探偵。名推理」

「もう、やめてよ」私は顔を背けた。「……だったら、始めから、そう言いなさいよ」

「ごめんごめん、奈津乃なら、こういう謎を使ったほうが食いつくと思ったんだよね。どう? 興味が出てきた?」

「謎はわかんないけど、ちょうど夏休みをどうやって潰そうか考えてたところよ。もちろん行くわ」

 一気に、悩みが吹き飛ぶような感覚だった。

 あの見たくもない母親の顔も、中兼も、大嫌いなあいつらも、全部みんな、夏の気温で溶けてしまうような気がした。その間は、せれな先生に会えないことだけが私の心残りだったけれど、それは別の日に巻き返せばよかった。

「やった。美保子にも声かけるね」

「うん、お願い」

 スマートフォンを取り出して、紗良が楽しそうに、美保子に電話をかけ始めた。

 合宿か……。

 そう口にして、笑みを隠しきれない自分がいた。合宿なんて単語は、今まで自分とは関係のない世界の言葉だとすら思っていたのだけれど、いざ自分に降りかかると、文句なしに嬉しかった。

 レトロゲームの謎については、実際わからないならわからないで、紗良なら許してくれるだろう。それに、最悪の場合はせれな先生に推理してもらうという手段もあった。なんとかなるという気分が、私を支配していた。

「ねえ、紗良」

 と、電話をかけようとした紗良の背後の方から、するはずもなかった声が聞こえた。それが誰のものなのか、視線を上げて確認する間もなくその女は続けた。

「その合宿、私も行っていい?」

 不躾な話だった。

 その顔をきちんと見て、私は喉に飴を詰めたみたいに絶句してしまう。

「中兼!」

「なによ、奈津乃」

 私の嫌いな中兼由麻部長が、いつの間にか部室に現れていた。

「私の夏休みの予定が、綺麗に飛んだのよ」彼女は尋ねてもいない理由を説明する。「バンド練習しようって思ってたのに、あいつら予定あるって言うのよね。まあ、別に良いんだけどさ」

「由麻も来るの? 珍しいね」紗良は、喜んで受け答えをした。そういえば、彼女たちは私なんかよりも長い付き合いの友人同士だった。「全然、場所的には問題ないけど」

「……だからって、なんであんたが来るの?」私はギターを投げつけたくなりながら、努めて冷静に尋ねた。

「別に……あんたたちの合宿が、面白そうだと思ったのよ」中兼が髪をかきあげて、どことなく羨ましそうに口にした。「良いじゃない。トランペットが一人加わろうが、あんたたちの実力なら問題ないでしょ」

「…………」

 何も言えなくなった私のことなんて放っておいて、紗良と中兼が合宿の予定を立て始めているのを、思い切り眉をひそめながら、私は釈然としない気持ちで見つめるしかなかった。

 その日、私はずっと不機嫌だった。



 嬉しさを半分、吐瀉物に塗りつぶされたような気分を引きずりながら、そろそろと家に帰る。

 玄関の扉を、そっと開けて閉めるのが私の癖だった。母親に、少しも気取られたくなかった。どうせ、母親は夕餉になれば呼びに来るのだから、今顔を合わせる必要なんてなかった。

 けれど、今日は母親に言わなければならないことがあるのを思い出した。

 薄く開いた扉の隙間から、テレビの音が聞こえる。母親が、確実にそこに存在しているのを感じた。

 隙間から首を入れて、見回した。母親はソファで物を食べながらテレビをぼーっと見ていた。そういう、どうでも良いことに時間を費やしているところが、昔から嫌いだった。私はその瞬間、ギターの重さを誇れる気持ちになる。

「お母さん。来週から合宿に行ってくるから」

 ただいまも言わないで、用件だけ一気に伝えて、そのまま逃げようかと思ったけれど、母親が驚いた後に睨むような形相を見せたので、少しだけ怯んでしまった。

「え? 合宿? 聞いてないわよ。いくらすんの」

「お金はいらない。友達と泊まり込みでやるだけだから」

「勉強してるの? 勉強は? 変な子たちとずっとギターなんか弾くわけ? それ、なにか意味あるの?」

「あるわよ」

 腹が立って、足で扉を閉めた。

 やっぱり、こんな親と口を利くものではなかった。単に合宿に行くと用件を伝えただけなのに、どうしてここまで不快になるのか、何度経験しても、騙されたかのように不思議だった。

 階段を駆け上がると、後ろから声が掛けられた。母親が、私を追って階段の入り口まで来ていた。

 その顔を、見てしまったら私は自分を抑えきれないことをわかっている。

「ねえ、奈津乃。それって、私へのあてつけ?」

「は?」足を止めて、声だけで返事をした。震えていた。

「あの男のギターなんか弾いて……ちゃんと勉強もしてないじゃない。あんたを、なんのために大学に入れたと思ってるの。もう三年でしょ。合宿なんかやってる暇あるの? ギターのレッスンまで受けて……。将来、仕事ないって言ったって、うちで面倒なんかみないわよ。わかってる?」

「わかってるから」

「将来どうすんの」

「知らないわよ」

「なにが知らないよ。こんなことなら、そんなギターなんか捨ててやるんだったわ……」

 舌打ちが、自分から無意識に漏れていた。

 振り返って、階下にいるこの女を見下した。

 硬い拳を作った。

「お母さん。このギターに触ったら、私、あんたのこと殺すから」

「はあ? なによその口の利き方……」

 私は無視して、自分の部屋に逃げ込んで鍵をかけた。

 忘れよう。

 ギターを背負ったまま、ベッドに倒れ込んで、重いものに押しつぶされる感触。

 忘れるためには、何をすれば良いんだっけ。

 けれどずっと頭を巡っている。

 私自身も前から考えていた。

 こんなギターなんか弾いて、何になるんだろうって。

 少なくとも、あの女のようにはならないという点が、私を生かしていた。

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