第5話 私のファーストキスの味

「悪いわね、お風呂だけじゃなく服まで貸してもらって」


 放課後、半袖のTシャツに細身のトラックパンツというラフな格好をした恭子が隼人の自宅に居る。心無しか彼女はその白い肌を火照らせており、異性の目には艶っぽく映るような状態である。

 ちょうどコーヒーを淹れ終えた隼人は、それをテーブルに置いた。


「気にしないでください。それよりも今日は災難でしたね。コーヒー淹れたんで温まってください」

「ありがとう。…それにしても、トラックに水をはねられて下着が透けるなんていうベタな展開がやって来るとはね」

「そうですね…」


 窓の外は相変わらずの大雨。会話が途切れる度に、水滴が地面に叩きつけられる音が部屋を支配する。午後から大雨が降るという予報は聞いていたものの、トラックに大量の水をはねられるなどという予報は聞いていない。

 バス通学をしている恭子をそのまま帰すわけにはいかず、高校から徒歩二十分程度の圏内に位置する隼人の自宅に招いたのだ。

 二人はコーヒーを一口飲み、冷えた身体を温める。


「……それにしても、このTシャツは何なの?この歳になって着るような物だとは思えないのだけれど…」

「それはペンギン将軍丸ですね。ちなみに、俺が着ているのはペンギン侍丸です。なかなか可愛らしいと思いませんか?」

「私には理解しがたいわね…。ただ、あなたが私とお揃いコーデをして優越感に浸ろうとしているのは理解出来るわ」

「…いや、そんなつもりはないですけど…」

(ただ、何だかアレだな…。そう、アレだ。俺が自分で着ている時よりもペンギン将軍丸の顔の辺りが少し膨らんで見えるのは…アレだな)

「……最近隼人くんの考えていることが手に取るように分かるのは何故かしら」

「いやぁ、何のことだか」

「……」


 恭子は腕で胸を隠し、隼人からの邪な視線を遮った。彼はそっと視線を逸らし、再びコーヒーを口にする。

 さて、これからどうしたものか。知り合ってから日が浅いせいか、隼人は恭子に対して取っ付き難さを感じている。更には、今までに植え付けられた女子に対する不信感というものが彼を縛っており、彼女の制服の乾燥が終えるまでのほんの数十分でさえもどうも上手くやり過ごせる気がしなかった。

 彼のそんな態度に気が付いているのか、恭子は物憂げな表情を浮かべる。

(私のせい、よね……)

 温かいはずのコーヒーカップに触れているのに、何故か指先は氷のように冷たく感じてしまう。——胸が、苦しくなる。

 少し俯いただけで重力で涙が溢れそうになるが、なんとか堪えてみせる。

(最初から私が居なければ……っ)

 しかし、これ以上後悔だけはしたくなかった。どうしても、自分だけは隼人の味方であると信用して欲しかった。彼女はゆっくりと立ち上がり、俯いたまま彼の隣に立った。


「先輩、どうしたんですか…?」


 その奇怪な行動に疑問符を浮かべる隼人の目の前で、恭子はトラックパンツの裾紐を解く。元々ウエストの細い彼女にはサイズの合わない代物であり、それは一切抵抗することなくストン、と地に落ちた。適度に肉が付いており、綺麗にスラリと伸びた脚と、そして黒の下着が露わになる。

 それでも彼女の手は止まらず、次はTシャツを脱ぎ捨てて、ブラジャーによって綺麗な円形に保たれた胸を放り出した。


「…どっ、どういう冗談なんですか…。そんなにもペンギン将軍丸が気に入らないですか…?それなら他のやつ探してくるんで待っててください!」


 そうやって逃げ出そうとする隼人の腕を掴み、力強く抱き寄せる。柔らかく、しっとりとした感触が隼人の腕に伝わる。

 しかし、それ以上に彼女の震えが伝わって来た。理由は分からないが、今は抵抗するべきでは無いと悟った彼は、大人しくその場に留まることにする。

(……女の子って、こんなにも柔らかくて温かいんだな)

 かける言葉が見つからずにしばらく待っていると、恭子が声を振るわせながら少しずつ言葉を紡ぎ始める。


「……うの…、違うのよ…。気に入らないのは私自身なのよ…。ズルくて、とても臆病な私…。それでも私は、あなたの味方だって…信じて欲しくて…どうしたら良いのか分からなくて…っ!……私の身体では、魅力は感じられないかしら…っ」


 瞳を潤わせながら、自分の想いを訴える。

 何故恭子が自分の為にそこまで身を犠牲にするのか、隼人にはどうしても理解出来なかった。その上、彼女の言葉や好意を素直に受け止められそうにない。『もう誰も信用しない。孤立することが苦しいのなら、最初から一人で居よう』自分を守る為に吐いた言葉。中学二年生の頃から続く苦痛が、出会ってたった数日しか経たない女子に癒されるはずが無い。

 彼女を抱き締めようとする手を強く握り、悟られないように腕を下ろす。


「…正直、どうして先輩が俺の為にそこまでしてくれるのかが分かりません。それを素直に受け止められそうにもありません。それでも……それでも少しだけ、信じてみたいとは思いました」


 自らの苦痛を誤魔化すかのようにして微笑む隼人のことが、どうしても愛おしく感じられた。『少しだけ』それだけでも喜びに堪えることが出来なくなってしまう。もっと近付きたい、そんな気持ちが水のように溢れ出す。雨音を掻き消すかのように心音が強くなる。自身よりもちょっぴり小さな彼のことが欲しくなる。そんな想いに気づく頃には、恭子は既に行動に移してしまっていた。


「——あなたが私の王子様なら、私は誰よりもズルいお姫様なのかもしれないわね…」


 柔らかい頬に手を添え、口づけを交わす。何度もついばむようなキスではなく、長く優しいキス。唇からは彼の熱とともに、ほんのりとコーヒーの香りがやって来る。隼人も同じものを味わっているのだろう、そう考えるだけで恭子は幸福で包まれる。互いに初めての行為であり、呼吸をする方法すらも知り得ない。

 耐え切れなくなった隼人がようやく抵抗し始め、彼女は唇を離す。とても満足げな彼女とは裏腹に、彼の表情には微かな影が射していた。


「……多分、多分、先輩の気持ちは分かったと思います。ただ、今の俺にはどうしても受け止められそうにはありません…」

「…ええ、別に今すぐ返事が欲しいっていうわけではないわよ。そろそろ制服も乾いた頃だろうし、帰らせてもらうわ」

「あっ、それならまた濡れちゃうかもしれないので、嫌じゃなければその格好のままどうぞ。せっかく乾かした制服が濡れるよりはマシだと思うので」

「ありがとう。そうさせてもらおうかしら」


 隼人は洗濯機から制服を取り出し、乾いているのを確認すると、手際良く畳んでビニール袋に入れ、持ち歩きやすいように更にそれを紙袋に入れてから手渡した。


「じゃあ隼人くん、また学校で会いましょう」

「はい、そうですね」

「…私のファーストキスの味、忘れないでね。ふふふっ」


 そう言い残して恭子は家を出て行く。扉が閉まる音がすると同時に、まるで糸が切れたかのように隼人はぺたりと崩れ落ちた。先程まで無理やり保っていた冷静さを失い、彼は両耳をりんごのように赤く染める。

(どうして俺は、こんなにもどきどきしてるんだ…?)

 普段とは違う自分に動揺する隼人を目の当たりにし、ちょうど学校から帰って来た美咲が気味悪がった。


「ただいまー。…って、お兄ちゃん玄関で何やってんの?」

「大丈夫だ、気にするな…」

「てかさ、めちゃくちゃ美人な人がうちから出て来たんだけど、あの人誰なの?お兄ちゃんのペンギン将軍丸の服着てたんだけど」

「あぁ、あの人は文芸部の先輩でな。トラックに水をはねられたから服を貸したんだ」

「ふーん…そうなんだ。——へっくち!そんなことより私も濡れたからお風呂入って着替えよーっと」


 可愛らしいくしゃみを挟み、美咲は身体を震わせた。よく見ると髪から水滴が滴っており、脱衣所へと向かった彼女の道を示すかのように床を濡らしている。そんな光景に呆れつつも、『風邪引かないように気を付けろよー』と彼女の身を案ずる。

 雑巾を持って来て隼人がせっせとそれを拭いていると、母親の千隼が帰って来る。彼女も美咲同様に髪から水滴が滴っており、シャツは肌にくっついてスレンダーな身体のラインを強調させている。


「ふうー、こんなにも降るなんて知らなかったわー。ねぇ隼人、もしかして美咲はお風呂に入ってるの?」

「ちょうど今入ったばっかりだな。母さんも冷えてるだろうし、美咲が出て来たら入れば良いよ」

「何水臭いこと言ってるのよ、二人でまとめて入った方が時短で良いじゃない」


 千隼はうきうきとした様子で風呂に入る支度を始める。当然の如く床には彼女の辿った道が残っており、『親子揃って手間がかかるなぁ…』と隼人はため息をついた。


「えっ!何でママが入って来てんの⁉︎」

「まあまあ、そう固いこと言わないで。あらっ、美咲ったらちょっと大きくなったんじゃないの?」

「ちょ、ちょっと…!どこ触ってるの!」


 風呂場の外にまで会話が聞こえて来る。なんだか居心地が悪くなった隼人は、さっさと床拭きを終えて自室へと向かった。

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