第50話 果たすべき約束

「ううっ、寒っ……」


 その男はコートの襟を掻き合せ、吹雪の中を歩いていた。とはいえそこはタリガという小さな町の通りでのことである。

 むろん遭難の心配をするほどではない。それでも下手をすれば凍傷にはなりそうなくらいには吹雪は激しかった。


「駄目だ、どこか店に入ろう」


 男の独り言はすぐ風に消されてしまったが、幸運は逆に風が運んできてくれたかのように男の前へと現れる。

 町の食堂とおぼしき建物がその入口に灯るランプの光に揺れながら、ぼんやりと浮かんで見えたのだ。


「いらっしゃい。まあまあ、酷い吹雪の中を。早くこっちにきて暖まりなさいな」


 食堂の店主であろうその老婆は、愛想よくその男に言った。

 男はドアの前で雪をはたき落とすと、にっこりと笑顔を作って老婆に頷いたようである。


「ああ、ありがとう。そうさせて頂こう。何か暖かい飲み物を貰えますか?」


 そう応えた男は、ふと見た老婆の顔が驚きに硬直している事に気が付いた。

 途端、男の目が針のように細められて鋭く光り、老婆の声が客のいない食堂に響いた。


「キ、キモータッ!」


 男は脱ぎかけたコートを再び羽織るとその身をひるがえし、ドアの取手へと手を伸ばす。


「キモータッ! 行かないでおくれっ。母さんはあんたが帰って来る日をずっと待っていたんだよッ!」


(母さん?……)


 叫びにも似た老婆の言葉を聞いた男は、伸ばした手を戻すと振り向いて言った。


「おばあさん、人違いじゃありませんか? 私はあなたの息子ではありませんよ」


「で、でもあなたは昔に家を出て行った息子のキモータにそっくりで……」


「私の名前は狭山譲二といいます。名前が譲二で狭山が名字、なので譲二でいいです」


「ジョージさん……。ああ、よく見ると息子のキモータとは似ているけどもやっぱり違う。太ってて脂でテカテカしていて、少し豚に似ているところ以外は違いました……。すみません」


 譲二は僅かに顔を引きつらせたが、「気にする事はないです」と言って手近なテーブルに腰掛ける。


「私があなたの息子さんに似ていたのですね。何か事情がおありだったようで、かえって申し訳なかった」


「いえいえ、お客さんが謝るなんてとんでもないことです!」


「まあ、何はともあれ熱くて甘いミルクティーを一杯貰えますか?」


 老婆は譲二からの注文を承ると急いで厨房へと行ったようだ。

 しばらくすると焼菓子を添えた熱いミルクティーが譲二のテーブルに置かれ、湯気を立ち昇らせながら良い香りを振り撒いた。


「ふぅ、やっと一息つけた」


 火傷をしないよう慎重にミルクティーを口にした譲二は、自分を見つめている老婆に笑顔を向けた。


「……息子さん。帰っていらっしゃるといいですね」


「はい。でももう半分諦めていますがね。それでも息子に似た人を見ると、今日のように我を忘れてしまいます。そう、先日も同じような事でそのお客さんたちにご迷惑をかけてしまいましてね」


「ほう。それはどういった?」


「はい、この町の冒険者の方なのですが、その若者に似顔絵を見せられたんです。自分のご主人様を知らないか? そう言っていました」


「ご主人様、ですか」


「その似顔絵が息子のキモータによく似ていたもので。まったくお恥ずかしい話ですが今日のように……」


「なるほど。ところでその若者はこの町の冒険者との事ですが、お名前はご存知で?」


「名前……。ええ、確かコテツという名の若者でした」


「コテツ。そうですか、その若者の名はコテツというのですね────」



 ◇*◇*◇*◇*◇




 譲二は八十二歳になった年に天寿を全うし、妻や子供たち、そして孫たちにも看取られながら幸せに人生の幕を閉じた。


 死の間際、譲二は家族一人一人を思い浮かべて別れを告げた。これで思い残す事は何もないと思った彼は、自分を迎えに来てくれるかもしれない一匹の犬の面影を探す。

 それは若かりし頃に飼っていた、コテツという名の柴犬であった。


 譲二にとってその柴犬は、自分の人生に掛け替えのない転機をもたらしてくれた恩義のある存在であったと言っていい。

 というのも柴犬は、いやコテツは、譲二がトラックに轢かれそうになったのを、自らの命を犠牲にしてそのトラックから譲二の命を守ったのだから。


 その日までの譲二の人生は自分で自分を呪い続け、空虚に時が過ぎるのを傍観する、ただそれだけの毎日であった。

 三十二歳で無職の引きこもり。他人にはキモオタと罵られながら、無駄に生き続ける日々。


 柴犬を飼ったのもただの気まぐれだ。すぐに飼うのに飽きて捨てる事になるだろうと自分でも思っていた。

 だが思いの外、柴犬との生活は楽しくて、まさか自分がこんなにもまめに世話をするなどとは考えもしなかった。


 譲二はおそらくコテツのことを愛していたのだろう。しかしそれを認める勇気は彼にはなかったようだ。

 自分自身を憎む者は愛に恐れを感じるものらしい。だから彼は愛を無視した。


 だが、コテツが自分の身代わりとなって死んだその日、譲二は始めてコテツを愛していた事を認めた。

 同時に彼は愛を恐れていた自分を強く後悔したのである。


 ゆえにその日を境に譲二は変わった。コテツの命に救われた自分の命を無駄には出来ないと思ったし、コテツへの愛を偽りにする自分でありたくはないと思ったのだ。


 果して譲二はアルバイトをして金を貯めながら専門学校へと通い、愛玩動物看護師の国家資格を取得する。

 それはコテツという柴犬に対する、せめてもの恩返しの気持ちがそうさせたと言えよう。


 譲二は保護動物のシェルターで定年まで働き、そこで出会った女性を伴侶とした。子供が生まれ孫もでき、そして今、穏やかに死を迎えようとしている。


(あっちに行ったら、またコテツに会えるだろうか……)


 それだけが今の譲二の願いであり、唯一の不安でもあった。


(神よ、どうかもう一度だけコテツに会わせて下さい。そして愛しているよと伝えさせて下さい……)


 すると薄れゆく意識のさらに遠くの方から、譲二の願いに答える男の声がした。


「神でなくてごめんねだけど、うん、君はこれから異世界に転生して、柴犬のコテツ君に会う事が出来るよ」


(異世界に転生? 失礼ですが貴方はどなたでしょうか?)


「そうだな、天使みたいな感じかな。実はね五十年前に私はコテツ君と約束をしたんだよ。もう一度飼い主である君に会わせてあげるってね」


(五十年前……。それはもしかしてコテツが死んだ日のことですか?)


「うん、そうなんだ。本当はあの日に死ぬのは譲二君、君だったんだよ。でも思いがけずにコテツ君が死んでしまってね。それで君の代わりに犬の彼が、人間として異世界に転生してしまったんだ」


(コテツが、人間として……)


「そう。その転生する時の条件がね、異世界でまた飼い主の君とめぐり会うという事だった。どうかな、譲二君はコテツ君と再び会いに異世界へ行くつもりはあるかい?」


(その異世界で、コテツが私を待っているのですね?)


「うん、待っている。そして必死になって捜してもいるよ」


(分かりました、もちろん行きます。コテツにもう一度会って愛していると抱き締めてやれるなら、私は何だってするでしょう)


「良かった! 安心したよ。ご苦労だがあともう少しだけ、コテツ君のために生きてくれたまえ」


 譲二はその天使を見つめながらも、脳裏にはコテツの面影を浮かべている。

 予期せぬ人生のオマケに僅かな混乱はあるものの、コテツの為にもう少しだけ生きる事への迷いは微塵もない。


「それでね異世界へは今の八十二歳の君の姿で行くわけではないんだ。コテツ君が死んだあの日の君の姿に戻ってもらう。でないと彼も戸惑ってしまうだろうし、老人の君では匂いも違うだろうからね」


(はは、あの頃の私は太っていましたからね。無事コテツと会ったらダイエットしなければなりませんな)


「あとね、異世界では君に妙な設定がついてしまっていてね、それが既定の歴史になっているんだよ」


(と、言いますと?)


「うん、少々心苦しいのだけど、まず君の名前はキモオタとなっている」


(キ、キモオタですか……。それは何と言うか、嫌な名前ですね……)


「それだけじゃなくてね、謎の組織ドッグランの首領でもあるんだよ……。正直私にもそれがどんな組織なのか謎なんだけどさ」


(謎の組織の首領って……。ずいぶん無茶振りしますね)


「ごめんよお。でもその代わりにね、その設定になれる為のチート能力を君に与えるんで何とか頑張って!」


 譲二がその天使から貰ったチート能力とは、『悪のカリスマ』『完全絶対防御』という二つの能力である。


 完全絶対防御はその名の通りで、どんな攻撃でも防御する。つまりコテツに会う前に事故や事件で死んでもらっては困るので、それを避けるための処置だ。


 もう一つの悪のカリスマは、悪に染まった犯罪者の心を抵抗出来ぬほど惹き付ける能力である。悪のカリスマの発動者を神のように崇拝し、決して裏切ることが出来なくなるのだ。

 つまり譲二の信奉者、くだけて言えば完璧な子分となってしまうわけである。


(その悪のカリスマという能力で、私に組織を作れというわけですか……。しかし悪人を仲間にするというのは恐ろしいですね。というかなぜ悪人限定なのでしょう?)


「なぜって、そういう能力だからだよ。手っ取り早く組織を作るのにピッタリなのがこの能力しかなかったんだ」


(いやしかし危険では? 悪の巨大組織が世界征服を企むなんて、漫画のような話もありますし。それこそ異世界では魔王なんかは定番ですよ?)


「え? 魔王になりたいの?」


(まさか!)


「まあそこは大丈夫。このカリスマ能力は君を崇拝させるだけの能力しかないから。しかも悪人たちは意思を持って集まっている訳じゃないんだ。だから君のために世界征服しようなど考えもしないはずさ」


(つまりただの烏合の衆だと?)


「そうだね。いうなれば小売店がただ集まっても大企業になるわけではないのと一緒さ。子分たちは相変わらず悪人のまま、今まで通り身の丈に合った悪事を働くだろう」


(なるほど、そういう事ですか)


「ただ、その悪人たちは君を崇拝する事に一生懸命になるから、結果的に悪事は減ると思うけどね」


(はあ……。何だか変な能力ですね)


「だね、だから君は組織だけ作ったら、子分たちの事は無視してコテツ君と会う事だけを考えたらいいさ。本物の謎の組織の首領になる事はないのだからね!」


(分かりました。頑張ってみます)


「うん、頑張ってね! あと組織を作るのに時間がかかるだろうから、コテツ君のいる時代より五年前へ君を転生させておくよ。そうそうコテツ君の人間の姿も教えておかなくちゃね──」


 やがて天使はこれでようやく肩の荷が降りたという風に、ホッと深い息を吐き出したのであった。



 ◇*◇*◇*◇*◇




 譲二は食堂の窓から外を眺めると、さっきより吹雪がだいぶ弱まってきている事に気が付いた。


(──そうか、この町にコテツは確かに居たんだな)


 食堂の老婆の話では、このタリガの町の冒険者ギルドは今は無人となっているようで再開の予定も聞かないらしい。


「おばあさん、美味しいお茶をありがとう。代金はここに置いておくよ」


「もう行きなさるかね?」


「ああ、吹雪も治まってきたんでね」


 譲二は食堂のドアを開けるとコートの襟を掻き合せ、中空を見渡した。

 そこには薄日の中に舞い踊る吹雪が光の反射で輝いて見える。


(待っていてくれなコテツ、必ずお前を見つけてやるからね)


 タリガの町にはザックザックという足音と風の音だけが聞こえていた。

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