第2輪②
家庭科室に着くと、調理台の上にレジ袋が置かれていた。レジ袋の中には、薄力粉やベーキングパウダー、卵、牛乳などの材料が入っていた。これらがドーナツの材料なのだろう。
「学校に来る前にスーパーで調達してきたんだ。調味料や調理器具は家庭科の先生方に許可を取って使わせていただけることになりました。なので、後片付けも綺麗にやること」
「はい」
「はーい。で先生、ドーナツってどうやって作るの?」
「レシピを用意したから見ながら作ってみて。その前に確認したいんだけど、三人とも料理はできる?」
「できません!」
「僕もできないです」
「簡単なものなら。でも、ドーナツは作ったことないです」
「ありがとう。料理ができなくても問題はないよ。美味しいドーナツを作ることが目的ではないからね。じゃあ、早速作ってみようか」
潮見先生は調理台の上に手書きのレシピを置いた。それを見に三つの頭が群がる姿は、一つの皿に入った餌を共有する子猫みたいだ。
「まずは役割分担する?」
「そうだな。時間も限られてるし、同時並行できることはしたいよな。まずは……薄力粉とベーキングパウダーを同時にふるう」
「卵を溶いたら、砂糖と牛乳を入れて混ぜ合わせて、溶かしたバターを加える」
開始早々、積極的に行動する二人の様子に戸惑いながら、僕は自分の役割を探そうとレシピを睨んだが、次の工程は二人の作業が終わってからでないと進めない。すっかり手持ち無沙汰になっている僕を見かねて潮見先生が言った。
「成瀬くんは見学だから、ドーナツ作りに参加しなくてもいいよ。今日はとりあえず、夜行生物部の雰囲気を味わうくらいでいいからね」
「はい」
口ではわかったふりをしているが、忙しそうに動いている彼らを他所に自分だけ何もしないのは居心地が悪い。いくら見学だからといっても、その場で立つ尽くすだけなのはなんだか嫌だった。しかし、頭だけが積極的になっても体が動かないなら、その誠意は伝わらない。
「成瀬」
「はっ、はい」
よりによって僕の名前を呼んだのが彼女なのは意外だった。黒弓さんは卵を溶きながら目線を何かの箱に向けながら言った。卵がボウルの中で刻みよく絆されている。
「バターをレンジで温めてくれる?」
「わかりました」
彼女が見つめていた箱からレシピに書かれている分量のバターを取り出し、底の深い皿に乗せてレンジの中に放り込んだ。熱に溶かされるバターを観察しながら、無口で他人に興味が無さそうな彼女の行動力と視野の広さに感心した。こんなにしっかりした子がどうしてカルト部活動にいるか全く検討がつかなかった。
それからレシピ通りに、液体類と粉類を混ぜて一つの塊にした後、ラップに包んで三十分寝かせる。その間に次の工程の準備をしたり、使用済みの調理器具を片付けたりと、やることはいっぱいあった。いい暇つぶしくらいにはなるけれど、僕はなんだか退屈に感じた。夜の学校でどんな怪しいことをしているのと思えば、お菓子作り。拍子抜けして、あんなに疑っていた自分が馬鹿みたいに思えた。
寝かせたドーナツ生地をラップに挟んで、めん棒で伸ばす。丁度いい厚さにしてから、ドーナツの型を抜こうとしたところで潮見先生がまた手を叩いた。
「ご苦労様。これで本題に入れるね」
先生はまな板の上に敷かれた生地を見た。美味しそうなクリーム色をしたそれは、見ているとだんだんお腹が空いてきた。
「では、これからドーナツをくり抜いていこう。一刀目は誰がやる?」
「新入りやってみれば?」
「僕?」
「じゃあ、成瀬くん。このドーナツ用の型抜きで生地を抜いてみて。『ドーナツの穴』を意識しながらね」
「ドーナツの穴」
ドーナツの穴を意識しながらドーナツをくり抜く日が来るとは。意味不明な言葉の使い道もわからないまま、僕は生地に型を押した。型を抜くと生地に丸い穴が開いて、型抜きに生地がくっついている。型にくっついた生地を綺麗に剥がして、穴の部分と円環の部分を分けて、まな板の隅に置いた。
「ではここで問題です。ドーナツの穴は食べられる?食べられない?」
「んーっと、食べられると思う!」
「食べられるし、食べられないと思います」
潮見先生からの突然クイズに二人は即答した。問題の意味もそうだが、二人の言っていることも僕には理解できなかった。置いて行かれたというよりも、三人の会話が異様なリズムで展開され、内輪受けのような議論に着いていく気にすらなれない。
「成瀬くんはどう思う?」
「どうって、ドーナツの穴なんてそもそも食べ物じゃないでしょう?」
僕が当たり前のことを言うと潮見先生はパチン、と指を鳴らして笑った。白代くんが吹き出しそうになっていることが気にかかった。
「いい質問、いや答えだね。じゃあ、君はドーナツの穴を残しながらドーナツを食べるのかな?」
「いやそもそも、ドーナツの穴ってどうやって食べるんですか?」
「それを知るためにドーナツ作ってんじゃん!」
大きく口を開けて白代くんは爆笑した。何が面白いのかさっぱりわからない。煮えくり返りそうな腸を無視して、黒弓さんがドーナツの生地をくり抜き、型にくっついた生地をじっくり見つめた。
「先生、まずドーナツの定義について成瀬に説明したほうがよくないですか?」
「そうだね。そういえば、成瀬くんにはまだ前回までどんなことをやっていたのか言っていなかったね。時間がないから手短に説明しよう。二人はそのままドーナツをくり抜いていて」
はーい、と元気のいい白代くんの声を後に、潮見先生は黒板に向かい合う。
「一口にドーナツと言っても、いろんな形があるよね。ここで取り上げているドーナツはリングドーナツ。前回は『ドーナツの定義』について考えて、導き出された結論がこう」
黒板にチョークを叩きつける音が夜の中でよく響く。暗がりの空の下でそれは新鮮で、奇妙な音がした。
「まず一つは、小麦粉に砂糖や卵、牛乳などの材料を混ぜ合わせて、油で揚げた揚げお菓子のこと。そして二つは、真ん中に穴が開いていること」
「一つ目がドーナツ全体の定義で、二つ目がリングドーナツの定義ってことですか?」
「そういうこと。そして、この議題で取り上げるテーマが二つ目の定義、真ん中の穴、つまり、『ドーナツの穴』について」
僕は首を傾げた。真ん中に穴が開いているならリングドーナツの定義を満たしている。それはつまり、『リングドーナツであるなら穴が開いている』ということだ。なのに、わざわざドーナツの穴の存在証明をする意味とはなんなのだろう。真意が読み取れず、もやもやする僕を掌で転がすみたいに潮見先生は弄ぶ。
「いいね、その何言ってんだこいつって顔。僕は結構好きだよ」
「でた!まこちゃん先生の変態っぷり!」
「はいはい、新くん茶化さないでね。たしかに、リングドーナツと呼ばれるのは真ん中に穴が開いているから。穴が開いていないつまり、穴が存在していないなら、それはリングではないからね。でも本当にそうかな?」
「どういうことですか?」
「それをこれから皆で考えていくの。先生、全部くり抜きました。残りの生地はどうしますか」
「全部一つにまとめて、ボール状にしようか。では揚げていこう。火と油の使い方には気をつけてね」
「はーい。成瀬、自分が抜いたやつ揚げてみろよ」
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