第1輪⑦
月が夜を支配する二十五時。午前一時。夜行生物の活動が始まる時間だ。
僕は宿題を片付ける手を止めて、時計の秒針をじっと見つめる。来週、僕が見学に来ることを保健室の主から聞いているはずだ。どんな反応をしているのか、どんな人がいるのか気になって、ついペンを動かすことを忘れる。気にしたって確認のしようがない。
ベッドに寝転んで、西向きの窓をのぞく。
猫の睡眠時間は一日約十四時間といわれているが、深い眠りについているのは十数分だけらしい。対して、人間に必要な睡眠時間は六~八時間。その約八割の時間、深い眠りについているらしい。しかし、僕の場合は一日平均して約四時間。寝つきが悪いうえに、授業中に寝ている僕を必死に起こそうとする先生の声をぼんやりと認識できるくらいには浅い。
就寝前に眠れる音楽を聴いたり、リラックス効果のあるハーブティーを飲んだり、睡眠の質を向上するために日中から運動をしたりと、色々と方法を試しては快適に眠れることはなかった。夏休みが終わる前には治るだろうと余裕をこいては、それが治る気配がなく、せめて早起きできるようになろうと努力をした結果、夢現の世界を彷徨うようになった。それが不眠症と悟ったのは、夏休みが終わる二日前だった。
僕は真面目な性格だが、性格と生活習慣は比例しない。今までも夜ふかしはしていたし、昼頃まで寝ていることだってあった。
夏休みが始まって、若さの特権を行使するあまり痛い目に合ってしまった。そんなこんなで夜に恋したつもりが夜に囚われてしまった僕だが、それでも夜は僕を虜にし続けた。
「習慣って怖い。いつになったら治るんだろう」
眠れないことに特別な心当たりはない。精神的に不安定なわけでも、自律神経が乱れているわけでも、もちろん寝疲れなんてことは絶対にない。だから、習慣ということにした。夜ふかしに慣れてしまって、体内時計がバグっているだけだと。それが今、僕を余計に眠れなくしている原因だ。
月曜日。誰もが憂鬱に感じるこの日は、僕にとって特別な日になる予感がする。
今日も目覚ましが鳴る前に起きていた。朝日に染まったばかりの空に早く夜が来ないかと問う。今日はいつもよりも体調がいい気がする。クローゼットから制服を取り出す。お弁当を忘れないことを念頭に、今日も朝食を食べず、誰もいない家に挨拶をする。僕の気持ちなどお構いなしに蝉が鳴いている。
ホームルームが始まるチャイムが鳴り終わってから、教室の後ろの扉に手をかけた。扉を開ける音は最小限に、靴が床に擦れる音が聞こえないようにつま先でゆっくり歩く。誰にも気づかれないだろうと思ったが、気配でわかるものらしく、一番後ろの席の連中に見られたのでもうやらないことにした。
今日も午前中に仮眠をとってから昼休み。いつもならここで保健室に行くことが恒例だが、今日は行きたくなかった。最後に食べるショートケーキのイチゴの楽しみをとっておきたいから。月曜日の授業は面白くも、楽しくもない。こんな退屈な日は妄想や空想の世界に意識を飛ばすが、時間が経つにつれて夜会の現実味が帯びて来て、楽しみ半分不安半分な気持ちが僕を現実世界から離してくれない。
「今日はあんまし寝てないのな」
「えっ?」
帰りのホームルームが始まる前、僕の前の席に座っている奴が聞いた。とても的を射た発言だと思う。今日は昼休みから寝ていない。久しぶりにまともに午後の授業を受けた気がする。
こんな僕を気にかけてくれる人がいたなんて。という感動はないが、心配をかけられるほど最近の僕はおかしいらしい。そりゃあ、成績は上の下、一学期は遅刻欠席なしの優等生のクラスメイトが、夏休みが明けた途端に遅刻魔で学校でも寝てばかりいるようになったら、クラス内ではプチ事件になるのだろう。変わり果てた姿に各々好きな憶測を述べながら、現実はちっともドラマチックではないことに気づくのか、冷めるのか。流れる風景の一部と化したい僕は、クラス内のトレンドになってしまった。
「もしかして、先週の体育でできた傷が痛んで眠れなかったのか?あまり無理すんなよ」
「うん、ありがとう」
先週の体育でつけられた痛みはもうとっくに引いているし、そんなものがあったこともすっかり忘れていた。窓の外では曇天が青空を隠していた。降るかもしれない。担任がホームルームを始める声に僕は猫の反応をした。
雨が降る前に家に着きたいと思ったが、無理だった。学校の玄関口に着いた頃にはゲリラ豪雨が降っていた。折り畳み傘を広げる生徒に先を越されながら、雨から身を守る手段を持っていなかった僕は二つの選択肢を迫られた。
学校から家までは走れば五分もかからない。だが、濡れたスラックスを世話するのは面倒だ。家に帰ってやらないといけないこともない。かといって、いつ止むかわからない雨をいつまでも待っている気にはなれない。五秒悩んで、少し様子を見てみようと図書館で暇つぶしすることにした。こんな時に限って宿題が出ていない。
短い夕立が去った空に虹が架かっていた。空にスマホを掲げる生徒を通り越して、また夜が来ないかと問う。
帰宅後もいつも通り夕食を食べて、風呂に入って、勉強をして、SNSを見て、気づけば午前零時を回っていた。夜行生物部の活動まで一時間を切った。体をそわつかせて、心は浮足立って、早いが制服に着替えた。なにを持っていけばいいか悩んで、とりあえずスマホと家の鍵だけ持っていくことにした。何度も時計を見ながら、寝静まった家の中でまた孤独と自由を感じる。零時五十分になった。
両親を起こさないようにそっと家を出る。夜風が気持ちよくて静かだ。澄んだ空に星が輝いている。
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