第1輪⑥
「丁度いいところに来てくれたね」
保健室の主は先ほどまで使われていたベッドを整えながら、保険医用の椅子に腰かけた彼に言った。
「また雑用の手伝い?人使い荒いよねぇ先生」
彼は主の弁当から卵焼きを摘む。それを視界の隅に捉えた主は言った。
「来週の月曜日に見学者が来るよ。今日の活動で詳しいことは説明する」
卵焼きを口に運ぶ彼の手が止まる。口角を上げて、大きく開いたその瞳は獲物の姿を捕らえる猫のよう。
「そいつは不眠症?それとも昼夜逆転?」
「それは来週のお楽しみ。でも、すごく夜行生物部にはぴったりだよ」
「そっか。そいつが入れば正式に部活動として活動できるね。あ、でもあの人がまだ部活にいてくれるかわからないか」
「えっ、彼辞めちゃうの?」
そう問われると、彼は卵焼きを口に放り投げて机に肘をついて考えた。保健室の窓から見えるグラウンドに蝉が飛んでいる。まだ夏の厳しさを知らせる日差しが煌々と奴に降り注ぐ。
「どうなんだろうね。でもあの人、夏休み明けてから見てないし、三年だからこの先学校自体来なくなるんじゃない?」
「そっか……。こんな部活に長くいるほうが心配になっちゃうけど、来なくなるのも心配だな」
「強制的に参加させることは出来ないんだよね」
「部員同士のプライベートに踏み込まないこと、活動の参加を強制しないことはルールだからね。まぁ、もうしばらく見守っていようか」
予鈴が鳴ったのを合図に椅子から立ち上がった彼は無言でベッドに倒れた。主はベッドのカーテンを閉じて、内線電話に手をかけた。
教室に戻ると、扉を開けた音に半数のクラスメイトが猫の反応をした。もちろんその中には例の陽キャの彼もいた。僕は彼らの視線を無視して、わざとらしく保冷剤を眉間に当てて見せた。
「成瀬!」
かかった。声のした方を振り向くと、陽キャグループの一人が僕をじっと見つめる。
「その……怪我大丈夫か?」
僕の怪我の心配をしている口ぶりだが、僕に怪我を負わせたことに責任があるかないかを知りたいだけだろう。普通、顔にボールに当たっても大した怪我は負わないだろうが、僕は気絶したからな。本当は熱中症だけど。
この様子だと僕が本当は熱中症で倒れたことは誰も知らないのだろう。ボールが当たっても当たっていなくても倒れる予定ではいたので、彼らには関係ないことだが。
「平気。怪我もないし、腫れてもないけど一応」
と言って、またわざとらしく眉間に保冷剤を当てた。痛みはすでに引いていた。自分でも何がしたいのかわからないが、彼らがどんな反応をするのか興味はあった。さっきまでの青ざめた表情はどこへやら、彼は安堵しきった表情をして少し腹が立った。
「そっか、平気ならよかった。本当にごめん!」
建前上の謝罪会見を終えると、彼は何事もなかったかのように日常に戻っていった。彼に群がる陽キャも謝罪会見中は態度で援護射撃をしていたが、今はそんな表情も透けて見えない。僕も日常に戻りに自分の固定席に座った。体育の授業よりも人付き合いの方が疲れる。
昼食を食べ、トイレで制服に着替え、授業の準備をしていたらあっという間に五限が始まった。保健室で眠れたおかげで今は眠くない。昼は朝と比べて眠くならないが、昼食を食べてから日当たりのいい固定席で国語の音読や英語のリスニングを聞いていると、また心地よい眠気に襲われる。幸い、僕のクラスの金曜五限は数学だ。
数式を解くことは頭の運動になるから嫌いじゃない。おまけに、僕のクラスで数学を担当している先生は、授業中の睡眠を断固として許さないタイプだ。二年になってしばらく経った日に、そいつの授業で居眠りしていた奴が授業中にこっぴどく叱られたことがあった。おかげで授業時間が二十分減った。それ以来、そいつの授業では寝てはいけないという暗黙の了解のもと、クラスには謎の結束力が生まれた。しかし、寝ていなければ、内職をしていても文句は言われないらしい。現に、僕の隣の席の女子は塾の宿題らしきものをしている。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った教室で黙々と数式を板書しては解く。こういう時だけ、学校に来ている感が湧く。
こんな感じで、僕のクラスの数学は緊張感に包まれて終わる。終了のチャイムは心の束縛を解く音。先生が教室から消えると、静まっていた教室はまた嘘のように騒ぎ立つ。
放課後。まだまだ暑い西日が、日に日に低く傾く。僕は保冷剤を返しに保健室に来た。
「失礼します。……誰もいない」
なんて無防備なんだと思いながら、僕はカバンから取り出したメモ用紙を一枚破いて、ここにきた旨を書いた。保冷材の返却だけなので、わざわざ先生が来るまで居座る必要はないし、僕は早く学校という名の牢獄から帰りたかった。先生の机にメモと保冷剤を置いて、扉に向かう。カバンを掛け直すと、肩が痛みを訴えてきた。いつぞやの寝違えた痛みが今になってでた。
「なんか用?」
後ろから声をかけられ、僕は驚きのあまり声も出なかった。振り向くと、閉め切ったベッドのカーテンの隙間から、女子が顔を出してこちらを見ている。多分、僕のクラスの女子ではない。サッカー部の掛け声がよく聞こえる。
僕の沈黙が長いことに痺れを切らした彼女は、強い口調で僕を攻めた。
「ねぇ、聞いてる?」
「あっ、ごめん。先生に保冷剤を返しに来たんだけど」
彼女に威圧された僕は、机に置いた保冷剤に視線を移した。彼女の視線もそれを辿って、状況を理解したようだ。
「用件はそれだけ?」
「はい」
「そう。先生が帰ってきたら伝えておく」
「あ、ありがとうございます。失礼します」
僕は足早に保健室を出た。あの場にいるときは完全に彼女が優位に立っていたが、冷静に考えてみると、一端の生徒があの場に我が物顔で居座っているのが腹立たしくなってきた。僕と同じで、保健室の主と仲がいいのだろうか。それにしても、どこかで聞いたことがあるような声だった。
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