1-5 不安な猫と従者希望の少年
久遠はこっそり抜け出して蔵の裏にいた。
数日通った結果か、猫たちは久遠が来てもなんの反応もしない。それどころか壁によりかかって座る久遠を枕かなにかだと思っているようで、手や足に体をくっつけてのんきに眠っている。
一番遠慮がないのが久遠を案内してくれた黒猫で、今日は久遠が座るなり膝の上で丸くなった。
夏の日差しを和らげる日陰。冷たい蔵の壁。心地よい風。猫の体温。久遠の眠気を誘うには十分なものがそろっていて、ここにくるとすぐに眠ってしまう。起きたときに変な姿勢で眠ったせいで体が痛くなっているが、部屋の中でぼぉっと天井を見上げているよりは気分がいい。
いつまでも逃げていちゃダメなんだけどな。と久遠は眠気に誘われながら思う。いつかは抜け出していることに気づかれる。そうなったらなぜ家の人間に顔を見せないのかと怒られるだろう。
久遠の生家は猫ノ目だ。けれど久遠は居候させてもらっているという気持ちが抜けきらない。食べるものも住む場所も提供してもらっている。そろそろちゃんとしたお礼をいわなければいけない。そんな気持ちは久遠にだってある。
けれど勇気が出ない。もう少し、あと少し、そうやって引き伸ばしにして目をそらし続けている。
目をそらしてはダメよ。という母の声が聞こえた気がした。
それに久遠は眠気眼で、あと少しだけ。そう頭の中で答える。起きたらちゃんと考える。だからもう少しだけ……。
まぶたが落ちそうになったとき、フシャアア! という猫の威嚇の声が耳に届いた。
驚いて久遠の肩が跳ねる。状況がわからないまま目を瞬かせると、いつもは奥の方でどっしり寝転がっている年寄猫がなにかに向かって毛を逆立てていた。初めてみる姿に久遠は目を見開いて、それから猫が威嚇している方向を見る。
「ち、違うんです! 怪しいものじゃないんです!」
その声には聞き覚えがあった。朝と夜、毎日欠かさず久遠にご飯を持ってきて、一礼して帰っていく少年の声だ。
茶色の髪に茶色の瞳。顔立ちは整っていてモデルのよう。久遠よりも背が高くおそらくは高校生。着る人を選ぶ白い制服がよく似合っており、久遠とは違う世界を生きている人に見えた。
久遠が突然現れた少年に驚いて固まっていると、少年も久遠の視線に気づいて目を丸くした。シャーシャー威嚇している猫なんて途端にどうでもよくなったようで、久遠の顔をみて破顔する。
その顔が、ずっと顔をみたかった。そう言っているみたいで、久遠はただ驚いた。そんなふうに思ってくれる人が両親以外にいるなんて思ってもいなかった。
「久遠さ……っ! いったぁあ!?」
久遠に一歩近づこうとした少年に威嚇していた猫が飛びかかり、がぶりと足に噛み付いた。少年の悲痛な叫び声。久遠は膝の上に黒猫が乗っていたのも忘れて立ち上がる。黒猫が不満そうな鳴き声をあげたが気にしていられない。
「ダメだよ! 噛み付いたら!」
慌てて年寄猫の体を抱き上げる。久遠に抵抗もせずに抱き上げられた猫は守を威嚇し続けていた。まるで久遠を守っているような行動に久遠は戸惑いながら猫を見つめた。
「守ろうとしてくれてるの……?」
久遠がそう聞くと猫は威嚇をやめて久遠を見上げる。当たり前だろ。そんなふうに言っているようで久遠は目を瞬かせた。
たしかに久遠は猫に好かれる。一人で公園で遊んでいるとよく野良猫がよってきて久遠にじゃれついた。人間とは仲良くなれなかったけど、どこにいっても猫には歓迎された。
久遠は抱き上げた猫をぎゅっと抱きしめた。猫は慰めるように久遠の頬を舐める。ザラザラとした舌の感触がくすぐったい。抱きしめた猫の体は温かい。
生きている。そう思った。
膝に乗っていた黒猫が久遠の足元にすり寄って不満そうな声で鳴く。自分も抱き上げろ。そう言っていると思っていいのか。どこにも居場所はないと思っていたけれど、猫たちは久遠を受け入れてくれるのだろうか。
「……猫に懐かれているんですね」
穏やかな声に久遠は顔をあげた。
すっかり少年のことを忘れていた。
地面に座り込んだ少年は猫に噛みつかれた足を抑えて久遠を見上げている。その顔は嬉しそうだった。少年にそんな表情を向けられる意味がわからず久遠は戸惑ったが、白い制服に血が滲んでいるのに気づくとその感情も吹っ飛んだ。
「血が!?」
「お気になさらず、このくらいかすり傷ですので」
「でも手当しないと、それに染み抜きしないと。血は落ちにくいから」
久遠は猫を地面に下ろすと慌てて少年の傷の具合を確認した。少年が言う通り傷はそれほど深くないようだが、制服が白いせいで血の赤色が目立っている。
公立高校の制服に比べて高級感のある制服はおそらく私立のものだ。久遠が着ていた制服よりもはるかに高そうなそれを汚してしまったことに久遠は青くなる。
「そんなに慌てなくても、制服なら予備がありますし、久遠様が気にされるようなことじゃ……」
「どこか制服が洗える場所は!? 責任とって洗うので!」
「いえ、大丈夫ですから! 久遠様落ち着いて!」
少年はそういって久遠を落ち着けようとしてくるが、久遠はとても落ち着ける気がしなかった。
「どこですか!」
自分がやったことではないとはいえ、あの猫は久遠を守ろうとしたのだ。ならば久遠が責任をとらなければいけない。そんな強い思いで少年を見つめると少年は久遠の気迫に負けたようで、水場がある方向を指さした。
「歩けますか?」
「……そんな大げさなものではないですよ」
少年はそういって立ち上がる。動きに変なところはない。ちょっと猫が強くかみすぎてしまっただけなのだろう。
それでも油断はできない。野良猫は病気を持っているものもいる。ここの猫は毛並みがきれいだけど、外を出歩いている以上用心にこしたことはない。
少年の制服の裾をひっぱって、早くと急かす。少年は戸惑った顔で久遠を見下ろした。
「……久遠様はもっとおとなしい方だと思っていました」
「……怪我する人を見るのが嫌いなだけです。小さい傷だって、血が出たらいたいじゃないですか」
久遠はそういいながら無言で少年の裾を引いた。久遠の言葉に少年はなにかを察したのか何もいわない。久遠はそれをいいことに黙々と歩いた。
小さかろうと傷は傷。痛いものは痛いのだ。血が出たら、……血が出なくとも、蹴飛ばされたり叩かれたりしたら痛いのだ。
久遠はそれをよく知っている。だから自分のせいで少年が傷をおったことを見過ごすことなどできなかった。
「……久遠様は私が心配するような弱い方ではなかったんですね」
少年の言葉に久遠は足を止めた。なにを言うのかと少年を見上げる。少年は眩しいものでも見るように目を細めて、唐突にその場に跪いた。
「私の名前は猫ノ目守と申します。久遠様のお世話をさせていただきたいと思っております」
少年――守はそういうと跪いたままじっと久遠を見上げた。いきなりのことに久遠は戸惑う。目の前で跪かれる経験なんて一度もなかった。
「……なんで俺なんか……」
「久遠様は覚えていらっしゃらないと思いますが、久遠様が生まれたばかりの頃一度だけお顔を拝見したことがあるんです。その時思ったんです。久遠様に一生お仕えしようと」
「……それだけで?」
久遠にはとても理解できない感覚だ。訝しげな顔で守を見つめる。守は苦笑を浮かべた。
「正直私もなんと説明していいのかわかりません。小さい頃に一度だけみた久遠様が忘れられなかっただけ。そうも思っていました。ですが」
守はそこで言葉を区切るとにこりと笑った。
「今、自分の直感は間違っていなかった。そう確信しました」
守はそう満足気にいったが久遠にはやはりよくわからなかった。今までのやり取りでどこに守が確信する要素があったのだろう。
「……失敗だったって思うようなことしかしてないと思うんだけど……引きこもってたし、ずっと無視してたし」
「いいんですよ。もう過去のことですし」
守はそういって立ち上がると久遠の手を取った。
「今、久遠様は外に出ています。それに私を気にかけてくださいました」
女の人だったら恋に落ちてしまいそうなきれいな笑みをうかべて守は久遠の手を引いた。上機嫌に鼻歌まで歌いだした守の背を久遠は唖然と見つめる。
悪い人ではきっとない。久遠を気にかけてくれるのも間違いない。けれど理由がわからない。
自分が金色の瞳をしているから?
口から出そうになった言葉を久遠は飲み込んだ。それを口に出したら肯定されても否定されても悲しくなるのがわかっていた。
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