1-3 隠れる猫と黒猫
幽霊やケガレは誰もが見えるものではない。そう久遠が知ったのは物心ついてすぐだった。
母は久遠と同じく幽霊もケガレも見ることができたが、父はまるで見えなかった。
嫁と息子が自分には見えないものを見ている。そのことを父はよく理解していたので、久遠が怯えるたびにその場を早足で離れたり、泣く久遠を慰めたりしてくれた。
しかし父のように自分が見えないものを受け入れてくれる人は少ない。多くの人はなにもないところをみて怯える久遠を嘘つきだといった。
大人は嘘ばかりついてはいけないと久遠を叱ったし、子供は変な奴だと久遠をバカにした。
人とは違う金色の目。人には見えないものが見えるという虚言。
世間が久遠を変な子として認識するには十分で、人見知りが激しかったこともあり久遠はあっという間にいじめられっ子というポジションに転がり落ちた。
両親は久遠のことを気遣って何度か住む場所を変えたが、どこにいっても久遠はいじめられっ子のポジションを変えられなかった。そのうちに久遠も自分はそういうものなのだと思うようになった。
両親はそんなことはないと久遠を全力で愛してくれたけれど、だからこそ両親以外は久遠にとって怖いものになった。
死んでも世界を彷徨い歩く幽霊も、なにかを探して夜の街をよたよたと歩き回る黒い生き物も、久遠をのけ者にして笑うその他大勢の人間も、久遠にとっては等しく恐ろしいものだった。
そのうちの一つである黒い生き物が「ケガレ」という名前であるとわかったところで、久遠の気持ちは少しも晴れない。
ケガレが見えてしまうのは獣の血を引く五家に生まれたからだとわかった今、自分の体に流れる血が疎ましくてしかたなくなった。猫ノ目に生まれなければ久遠は普通の子供になれたはずだ。
ため息をついて本を閉じ、スマートフォンも机の上に置く。
猫ノ目の人間が久遠を狩人にしたいことは察することができた。久遠は自分に特別な価値があるとは思えなかったが、この家の人たちはそうは思っていない。
このままでは自分はやりたくもないことをさせられる。
けれど、ここ以外に久遠が生きていける場所などない。久遠は未成年で、血縁者は猫ノ目にしかいないのだ。
暗い気持ちになり久遠は首から下げたおもちゃのナイフを取り出した。プラスチック製のそれは刃の部分が物にふれると引っ込むように出来ている。誰も傷つけることのないおもちゃのナイフ。それは母からもらった物だ。
初めてケガレをみて大泣きした次の日、母はおもちゃのナイフを買ってきた。久遠に握らせて、これを肌見放さず持っていて。そういうと、紐を通して首からかけれるように改良してくれた。
なんで母がそういったのか、久遠にはわからない。聞くことすらできなくなってしまった。
ただその時の母はとても真剣な顔をしていたので、子供心に必要なことなのだと思った。それから久遠はずっとナイフを持ち歩いている。
両親がなくなった今、おもちゃのナイフは母の形見とも言える。猫ノ目に来てからというもの久遠は不安になるとナイフを握りしめて過ごした。
久遠、目をそらしてはダメよ。
ナイフを持つたび母の声が聞こえた気がした。いつも優しかった母から口にされた唯一嫌いな言葉。
目をそらしてはダメ。怖いものはじっと見ないといけない。そうしないともっと怖くなるのよ、久遠。
そういって母は久遠の金の瞳をじっと見た。それが久遠はいつも怖くて、その瞬間だけ久遠は母が遠いところにいる気がした。
その言葉がここに来てから何度も頭の中に響く。目をそらしたいのに、現実から逃げたいのに、あと一歩のところで久遠を現実につなぎとめる。
ため息をついてナイフを服の下にしまった。
母の言葉からどうにか逃れようとしてみたが無理だった。どんなに怖くても、久遠は母が好きだ。母が意味のない言葉を久遠に言い聞かせたとは思いたくなかった。
「この先どうするか決めるにしたって、なにも知らないんじゃ決められない」
言い訳をするようにつぶやいて久遠は音を立てないように移動し、障子に耳をあてて周囲の音を確認する。
猫ノ目の屋敷は昼間は静かだ。ケガレを浄化する仕事は夜に行うため、昼間は休んでいるものが多いのだろう。久遠の部屋は他の人の生活範囲から離れているようで人通りも少ない。
たまたま空いている部屋を用意したらそうなったのか、久遠が逃げないように奥の部屋を用意したのか。どちらなのかはわからない。
現状、人との接触をできるだけ減らしたい久遠にとっては都合がいい。朝餉と夕餉を持ってくる少年の他には時折様子を見に来る誰かの気配がするくらいで、久遠の部屋周辺はいつも静かだ。
トイレの場所は引きこもる前に教えてもらったので、人の気配がない時間を見計らって部屋を出ていた。ついでに部屋の周辺をみて回ったところ、庭には久遠の姿を隠す物が多くある。
庭に出るためのサンダルが置いてある場所も発見した。こっそり部屋をでて散策するくらいはできそうだ。
周囲に人の気配がないことを確認し、久遠はゆっくりと障子をあけた。目でも人の気配がないことを確認すると音を立てないように廊下を進む。
曲がり角に差し掛かるたびに周囲を確認。ゆっくり、慎重に、それこそ猫のように進んでいく。
サンダルがおいてある場所までくると、素早くサンダルをはき、庭にある木の後ろまで走る。木の陰から周囲を伺うが人のいる気配はない。ふぅっと息を吐いて久遠は胸をなでおろした。
庭に出てしまえば人に見つかるリスクは減る。庭師以外の使用人は仕事に忙しく庭などに目を向けないからだ。
ずっと引きこもっていた久遠が出歩いていると思う人もいないだろう。そう思ったら久しぶりに久遠は気分が良くなった。このまま外に出てもバレないんじゃ。という浮かれた気持ちになって頭をふる。
それは最終手段。実行するならもっと家の間取りを把握しなければいけない。
今日はどこかでのんびりしたいと久遠は周囲を見渡した。人が来ない場所。できれば日当たりがいい場所。そんなところがないかと身を隠しながら久遠はあたりの様子をうかがう。
そのとき視界の端をなにかが横切った。
黒い猫だ。ゆらゆらとしっぽが揺れ、我が物顔で猫ノ目の庭を闊歩している。猫を飼っているという話は聞いたことがないが、ここは家ですと言わんばかりの態度だった。
久遠は気になって黒猫の後を追った。猫は後をついてくる久遠に気づくと足を止め振り返り、にゃあ。と一声。
ついてこい。
そう言われた気がした。
猫は迷うことなく進む。久遠もその後を追う。久遠の気持ちをくんだわけではないだろうが、猫はどんどん人気のない場所へと進んでいった。たどり着いたのは古い蔵。人が出入りした様子がなく、どことなく不気味な雰囲気がある。
久遠は怖気づいたが猫はそんなの知らんとばかりに蔵の横を通ってさらに奥へと進む。久遠もここまで来たらとつばを込みこんで猫のあとに続いた。
蔵の裏にはたくさんの猫がいた。白、黒、茶色と様々な毛並みをした猫が自由にまどろんでいる。黒猫がにゃあ。と鳴くと猫たちは顔をあげ久遠を見た。値踏みされていると感じた久遠は挨拶した。
「俺もここにいていいかな?」
久遠の言葉に猫たちは知らんとばかりに目をそらした。そのまま目を閉じたり伸びをしたり、自由気ままに過ごす猫たちを見て久遠はホッとする。逃げなかったということは久遠を受け入れてくれたと考えていいのだろう。
それでも猫たちの空間にずかずかと入り込む気にはなれず、隅の方の蔵の壁に寄りかかって座る。壁はひんやりしているし、日陰になって涼しい。さすが猫が集まるスポットだと久遠は息を吐いた。
なぁお。とすぐ近くで声がした。見れば久遠を案内してくれた黒猫が隣に座っている。前足でちょいちょいと地面に置いた久遠の手をひっかく。
「ごめん、ご飯は持ってないんだ」
久遠んの言葉に黒猫はにゃあ。と鳴いた。仕方ないとも言わんばかりの顔をしてから毛づくろいを始める。人懐っこい性格なのか久遠の隣から離れない。
あたりで寝転がっている猫たちは野生にしては毛並みがいいし痩せている子もいない。首輪はつけていないが誰かがご飯をあげているのかもしれない。
横で毛づくろいする黒猫を見る。なにかあげられたらいいのにと思ったが、久遠にはなにもない。毎食届けられるご飯は猫には味が濃くて体に悪いだろう。誰かに頼むという考えが浮かんで首を振る。頼める相手などいるはずもない。
一瞬、毎日頭を下げて去っていく少年が頭に浮かんだ。彼だったら久遠の要望に応えてくれるかもしれない。けれど……。
にゃあお。
黒猫がなく。久遠の手をたたく。慰められているみたいだと思って久遠は笑みを浮かべた。
「考えるのはあとでいいか」
今はまだなにも考えたくない。
久遠は壁に寄りかかって空を見上げた。天気がいい。風は心地よい。猫の声が聞こえて寂しくない。そこはとても落ち着く空間だった。
久遠の手に温かいものが触れる。見れば黒猫が久遠の手を枕にして丸くなっていた。
久しぶりに感じる穏やかな気持ちに久遠は目を閉じた。恐怖も不安も今だけは忘れてしまおうと思った。
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