恐怖の象徴 サワガニさん
夢を見ました。
場所は特別学級の教室と同じレイアウトの教室。具体的にどこが違うかを述べる事はできませんが、細かいところが色々違っています。
朝一番に教室に入ったときのような、ちょっとだけ暗いけど明るい、静かな教室。わたしは自分の席に座っていました。
特別学級の席は一列に五人が横に並ぶ配置ですが、この教室には六個目の机と椅子がありました。
その六個目の席に、少年が居ます。彼の他には誰も居ません。
彼が、二人だけの場を用意したという印象がありました。
制服を着ているので同じ学園の生徒だと思うんですが、見覚えがありません。知らない人と二人きりだなんて怖くて仕方ありません。気にしていないつもりなんですが、やはり誘拐された時に感じた恐怖が心の傷として残っているんでしょう。
この段階でこれが夢だと気付いたんですが、今度は声が出ませんでした。声帯は震えています。でも音が無い。
「やあ、こんにちは。こうしてちゃんと話すのは初めましてだね、アサヒ・トゥロモニ。」
どこかで会った事があるんでしょうか、妙に馴れ馴れしい口調で話しかけてきました。
この人物がどこの誰なのか全く見当もつきません。
関わり合いがあった中で個人を認知していない人がいるとしたら、わたしを洗脳して彼女にしようとした卑怯者の取り巻きの誰かでしょうか。
「ボクの名前はサヴァン・ワガニン。皆が名前を言えない魔法使いだよ。」
挨拶から流れるかのように名乗って頂きましたが、やはり名前にも聞き覚えはありません。なんだか沢蟹みたいな語感なので、この夢の中の彼の名はサワガニさんとしましょう。沢蟹とは、実物を見たことはないんですが、綺麗な淡水の渓流にのみ生息するというカニだそうです。つい口にしてしまう可愛い名前ですね、サワガニ。
その名前を呼んではいけないサワガニさんがなぜ私の夢に?
「へえ、そんな方法があるんだ。」
わたしの声が出なくて意思疎通は不可能でしたが、サワガニさんは何か感心しているようでした。声を出せずにいる事も理解しているようなので、おそらくはこれも彼の仕業でしょう。
声が出せない。つまり呪文が唱えられないので、致命的な状況です。
魔法陣や媒介を用いるだけの、応用を学んでいない入学したての学園生徒を相手にするのならば、こうやって黙らせるだけで十分に対処できます。杖を振るい呪文を唱えて奇跡を起こすのが普通の魔法です。
このままいつも通り喋ろうとしても埒が明かないので、言葉を発する事にしました。
手を一度だけ叩き、音が出るのを確認します。出た音をそのままイメージして、魔法で相手にも届く形の声を作ります。
「何か御用ですか、サワガニさん。」
「うわ、喋った!?」
出た! わたしの声が出せました。やればできるじゃないか。
サワガニさんは黙らせる魔法を破って声を発した事にたいへん驚かれていました。
そりゃ人間ですし、喋るくらい朝飯前ですよ。失礼な人です。
夢の中の人間なんて私の想像上の人物ですから、正直な話、意味のある返答など期待はしていませんでした。ですが、こうして質問できるようになったので答えてもらいましょう。
ここはわたしの夢の中で、サワガニさんは何らかの形で人の夢を覗き見ようとする来訪者。わたしがこの場で目覚めてみたり夢の舞台をメチャクチャにすれば、ヨソモノの彼は吐き出される事になる。用件を伝えられないまま追い出されるのは本意ではないはず。
こんなのは脅迫にも交渉にもなってません。でも夢の中ですから、様々な法則を無視した無茶も通ります。主の権限で通してみせます。
わたしに杖を向けられたサワガニさんが何か言おうとした所で、なにか大きな音が鳴り響き始めました。
この状況は知ってます。現実世界のわたしの耳元で目覚まし時計が鳴ってるんです。本で読みました。
「時間切れみたいだねえ。」
また来るのであれば、わざわざ面倒な手を使って来るのだから、用件をちゃんと言って欲しい。そう伝えるとサワガニさんは首を振りました。もう来ない、という事でしょうか。
「僕を見られた以上、この手はもう使えないから。」
教室がいきなり何も見えない真っ白な空間になってから、目覚める寸前に見えた彼の顔は、とても残念そうでした。
そんな夢を見たという事を皆に伝えたところ、一斉に顔が引きつりました。
サヴァン・ワガニンでしたっけ。夢の中の人物ですから、実在しててもそんなに驚くものではないでしょう。
その名前を再び何気なく口にしたところ、ポールが血相を変えて教室を飛び出していきました。マッシュは何か怖いものを見たかのように恐怖で顔を引きつらせたままローブを被って縮こまってしまいます。クロード君とナミさんは口をあんぐり開けて呆然としていました。
名前を呼んではいけない魔法使いがいるって話がありました。
もしかして、なにかとてつもなく恐ろしいものを召喚してしまったのかと振り返ってみましたが、後ろにサワガニさんが居たりはしません。
「サワガニって何……?」
「サヴァンワガニンを早口で言うとサワガニみたいな発音になるからサワガニです。」
今度はナミさんが倒れてしまいましたが、クロード君は耐えてます。やっぱりすごいやクロード君。
「アサヒ、なんともないの?」
サワガニの語感が可愛いと思うくらいで、夢の中で見た彼の顔を思い出しても特に何も感じません。従わなくてはいけない、何かをしなくてはいけないという強制力を感じることもありませんでした。
どうしてこんなことになってしまったのかは、始業時刻に遅れて来た先生が事情を聞いてからマッシュを落ち着かせている間に、全力疾走で廊下を走っていたポールを捕まえて、彼を子猫のように吊り下げて連れて来た理事長が説明してくれました。
サヴァン・ワガニンとは、その名前を口にするだけで彼の手先となる呪いが発動して操り人形になってしまうという悪い魔法使いの名前だそうです。この名前自体が魔法発動の為の呪文になってしまっていて、迂闊に名を出す事もできないんだとか。
その話を聞いて思い出しました、サワガニさんはクロード君の因縁の相手です。突然わたしが親の仇とお話する夢を見たなんて言われたら、そりゃあ驚きますよね。
サワガニさんは理事長の知り合いでもあるらしく、理事長の記憶と夢の中で見た彼の特徴は一致していました。わたしが聞いていた彼の発言から察するに、夢を使ってわたしにちょっかいをかけてくる事はもう無いだろう、とのことでした。
今回、わたしは無自覚のうちにサワガニさんの洗脳を弾き飛ばしてしまったようです。
魔法が解けたり効かなかったりするのは特に珍しい事でもなく、柱の角に小指引っ掛けた程度のショックで洗脳のトリガーを解除できてしまうらしいです。
理事長と先生、そしてクロード君にはこの呪いが効いていません。
ですが、この単語そのものが恐怖の対象でもあり、マッシュのようにひどく怯える人も多いのであまり口にするなとご指導を受けました。
可哀想なくらいにビビるのを見ると、嫌な相手を懲らしめるのには有効な気がします。
でもダメだと言われたのですから止めておきましょう。
そういえば、サワガニさん、わたしの事を何て呼んだっけ?
ああそうだ、アサヒ・トゥモロニ。
それはわたしが入学前に置いてきた、わたしを捨てた家の名です。
あの家にはどんな事が起きようと絶対に戻るつもりはありません。
次に会うなら、そこだけは訂正してもらいたいな、と思いました。
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