灰色のカナン

第1話

 私は、私はひどくうなだれていた。なにもする気が起きなかった。どこにも行く気が起きなかった。一切に対して気力というモノが湧かなかった。およそ、私は無気力なヒトの形をした肉塊と化していた。

 今私が居るのは木の下だった。広い大きな葉っぱをした大きな木の下。秋を迎えているからだろう。葉は赤く色づいている。

 しかし、視界に入るそれにさえこれといった感動はない。これといった言葉もない。そういったものを浮かべる力さえ最早残されてはいなかった。

 雨が降っている。ざぁざぁと音を立てて降っている。視界はそれで白く霞んでいる。向こうに見える街、日暮れの街。それが霞んで見えなくなっている。

 私はそれにひどい安心感を覚える。街が見えないことに安堵する。見えない方が良い。見たくはない。あんなものは考えるだけで気分が悪くなる。

 あそこは私の街だが、私はあそこが大嫌いだった。私はあそこから出て、少し離れた丘の上のこの木陰でうなだれているのだ。力なくうなだれているのだ。

 何故なのか。要するに私はあの街から逃げるようにここに来たわけだが、それは何故なのか。

 それは、生きるのが嫌になったからに他ならなかった。

 もう全部嫌になったからに他ならなかった。

 私は消えてなくなりたくなったのである。私は私を取り巻く一切を無くしてしまいたかったのである。

 なにがどうなるかなんてまるで分からなかったが、あそこから出てここまで来て、そしてうなだれれば少しは救われる気がしたのである。

 私は落伍者だった。社会の外れモノだった。底辺の人間だった。

 仕事はある。しかし、私はそこで奴隷のように働いていた。

 身一つで田舎から出てきた若い男である私の仕事は工場の職工だ。魔法を動力とする魔導機関が発明されてから世の中は一気に発展し、そこいら中に工業製品を生み出す工場が乱立したわけだが、私はその工場のひとつで働いていた。 

 石畳の街の一角、そこにある魔法の駆動部分のパーツを作る工場、私はそこで働いていた。

 私は仕事は出来なかった。私は毎日ゴミのように怒られていた。給料は安かった。出来ない仕事の重圧、周囲の人間からの白い目、怒号。そして、毎日生きるのさえままならない金。

 私の人生ははっきり言って最悪だった。私には希望が見えなかった。

 私は役立たずのクズで、この先もそれは変わらない気がしていた。

 世の中はこんなもので、私の一生はずっとこうなような気がしていた。

 明かりが見えない、出口が見えない。

 私は生きる気力を失っていたのだ。

 だから、とっとと消えたかったのだ。どこかで静かにおさらばしたかったのだ。

 こんなクソみたいな毎日を終わりにしたかったのだ。誰にも気付かれず、迷惑もかけず、悲しませることさえせず、綺麗に消えてなくなりたかったのだ。

 だから、こうして丘の上に来ていた。

 だが、ここに来たからといって消えるはずなどなかった。

 所詮ただ街から離れただけだ。なにが起きるはずもなかった。

 私はこうした不毛な行動を今まで何十回と行っていた。

 ただ不毛で、ただ空しい行動だ。発端が絶望による行動だ。寂しい寂しい行動だ。

 なんの意味もない行動だ。

 こうして過ごしてもう1時間ほどが過ぎただろうか。

 やはり今日もなにも起きなかった。起きるはずもなかった。

 私は願っていた。ただ願っていた。私を消すなにかが現れはしないかと願っていた。

 私のこのあまりにもどうしようもない日々を終わらせてくれるなにかが現れはしないかと願っていた。

 ざぁざぁと雨が降りしきり、やがて風も出てきて私の全身はもうずぶ濡れだった。

 風邪を引きそうだったがどうでも良かった。どうせ、あのクソ工場のクソ班長は風邪を引いていても私を寝床から引きずり出して配置につかせるに決まっているのだ。

 なにもかも関係なかった。ただ、なにも見えなかった。ただ、頭の中が暗かった。

 私は雨と日暮れで見えなくなっていく景色を、ただ漫然と眺めていた。



―ザクザク



 そんな見ようともせず景色を見ている私の耳に、ただ呆然としているだけの私の耳に何かが聞こえた。等間隔で響く音。ゆっくりと近づいてくるその音。

 どうやらそれは足音だった。

 しかし、人間の足音ではなかった。どう考えても人間より重く、大きいなにかの足音だった。

 それは雨の向こうからやってくる。丘の向こうからやってくる。

 私はその方向を黙って見ている。近づいてくるなにかにさえ感情はあまり浮かばなかった。少し不安だったがそれだけだ。

 風が吹き、私の顔に大きな雨粒が吹き付けた。私はうつろな目でそれを受けている。



―ザクザクザク



 それはどんどん近づいてくる。私はそれを木に背を預けて待っている。

 そして、やがて現れたそれは明らかな怪物だった。 

「グルル....」

 喉を鳴らしてそれは私を見下ろしていた。それはどう見ても人間2人分は背があった。それは全身を黒い靄で覆われていた。それの足は狼のようで、それの手はだらりと長く先には長くて鋭い爪があった。そして、黒い靄で見えない顔には赤い目が二つあり私を見ていた。

 魔獣だった。普通の生物ではないもの。魔力によって変質した怪物。魔生。

 それが私を見下ろしていた。

 それは黒い靄で隠れた口からだらりとよだれを垂らしていた。

 どうやら、こいつは私を獲物として狙ってきたらしい。

 つまり、私は今からこいつに殺されるらしい。

「ガァハァ....」

 吐息を漏らし魔獣は顔を私に近づける。何かが腐ったような悪臭が私の顔に吹き付けられた。臭い。思わず顔をしかめる。

 しかし、この期に及んでもそれ以上の感情は浮かばなかった。

 疲れていた。この怪物に対して真面目に恐怖する気力もなかった。叫び声を上げる気も起きなかった。

 ただただ、死ぬのかと思うばかりだった。

 そして、良かった。と思った。

 魔獣に殺されて死ぬ。誰も罪を負わない。誰にも迷惑はかからない。自ら命を絶つわけでもないから誰が恨まれることもない。

 悪くない。そう思った。

 ここで待っているかいというものもあったらしい。

 ようやく、終わりがやってきたのだ。

 これで全てが上手くいくのだ。

「ああ、良かった」

 私は知らずに漏らしていた。

 目の前の怪物を仰ぐ。その向こうの薄暮の灰色の空を眺める。これが最後の景色になる。もうなににも苦しむことも失望することも悲しむこともない。

 ただ、全てが終わるのだ。

 私はゆっくりと爪を上げる怪物を見た。そして、それが振り下ろされるのを見た。

 その次の瞬間に訪れる結末を降りしきる雨を見つめながら受け入れた。

 しかし、その結末は訪れなかった。


―ドカ、

 

 鈍い音とともに怪物は吹っ飛んでいったからだ。

 何かが起きた。無気力な私も突然状況が変わったのなら何が起きたか気になる程度の感情は残っている。私は視線を下ろして怪物が立っていた場所に移す。

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