第9話 Duelliste

第40話 ジャンヌよ剣を取れ

「さあ、伯爵。到着しました」


 ジャンヌは元老院議員で古くからの知人であるゴロワー伯爵をアメジストの背に乗せ、議事堂から外務省まで送り届けた。


 伯爵は新しい物好きで、多くの人が手紙や荷物は託しても、自らの身を預けるのは躊躇う飛龍に乗せてもらうのを楽しみにしていた。


「ありがとう、ジャンヌ。先日クルチウス博士に乗せてもらった時は荒っぽくて参ったが、君は流石にレディだけあって丁寧だな」


 ジャンヌの困窮を知る伯爵はそれとなくチップを渡そうとしたが、ジャンヌはこれを丁重に断った。


「この娘のおかげですよ。私は所詮この娘に乗せてもらっているのです」


「するとこの飛龍はメスかね?」


「女龍と呼んで下さい。アメジストと言って、私のかけがえのない相棒です」


「そうか。ありがとう、アメジスト。これはオペラが出来るようないい話だな」


 伯爵はアメジストの背を撫でて、飛龍酔いで少しふらふらしながら外務省へと消えていった。


 ジャンヌは飛龍乗りが自らの天職だと信じて疑わなかった。愛するアメジストと共に空を飛ぶのは何物にも代え難い幸福であり、家運も上向きつつあった。


 飛龍乗りは普通の将校の3倍の給料を支給され、他にも色々な手当がつく。どこへ行くにも軍服で事足りるので、堅苦しくて高価なドレスを仕立てる必要もない。


 何より嬉しいのは、劇場にタダで入れる事だ。帝国の劇場は軍人は半額、将校は木戸御免という慣習になっている。


 休日になる度にジャンヌは帝都で会計士と会談を持ち、各種の投機や旧領の買い戻しについて話し合い、その後は観劇をして一日を過ごすのが常だった。


 その日のジャンヌは帝国一の格式を誇る帝都座に入った。その日は芝居の初日で、劇場はいつになく混み合っているが、ジャンヌには劇場の方から招待状が届く。


 ジャンヌが足を運ぶというのは今や劇壇におけるステイタスだったし、客席に軍人が居ない芝居は失敗とみなされた。軍人は帝国の劇場の舞台装置とさえいえた。


 ジャンヌは劇場に上官が居れば敬礼するし、知り合いの貴族が居れば挨拶をする。だが、必ずしも相手が友好的とは限らない。


「あら。野暮ったい軍人が居ると思えば、ジャンヌじゃないの?」


 嫌味な言葉にジャンヌが振り向くと、そこには一番会いたくない相手が居た。


 雲つくような大男の紳士を伴い、役者より派手な真っ赤なドレスと宝石で身を固めたその娘は、社交界で売出し中のルミュー子爵令嬢、マリアンヌである。


 ジャンヌと同じ南部の名門貴族の娘だが、没落してしまったレミ伯爵家と違って、ルミュー子爵家は今なお莫大な領地と財産を持っていた。


「やあ。久しぶりだな」


 ジャンヌはこの同い年のマリアンヌが大嫌いであった。なので形だけの挨拶をして逃げようとしたのだが、マリアンヌはそうさせまいと立ちふさがる。


「素通りはないでしょう?先祖代々の付き合いなのですから」


「付き合い?」


 ジャンヌは露骨に嫌な顔をした。この性悪な娘と同じ空気を吸うのさえ不快なのだ。


「怖い顔をして。それでは殿方が寄り付きませんわよ?」


 マリアンヌは伴っている寡黙な紳士に視線をやった。マリアンヌはジャンヌが会う度に違う男を連れている。


「軍人は色恋をする程暇がないのでね」


「まあ。戦争がしたければ傭兵を雇えばいいのに、物好きね」


「特権と引き換えに国難に率先して身を投げ出す。それが貴族じゃないのか?」


「あんな山賊のような名ばかり皇帝に忠誠を誓った家の娘だけあって野蛮ね。気品がないわ」


 これには遠巻きに眺めていたギャラリーもどよめいた。これは帝国中興の祖、レオ一世へのあまりに露骨な侮辱である。


 かつて旧王朝を打倒せんとして興り、多くの貴族が処刑された革命で危険をいち早く察知したルミュー子爵家は、領民を捨ておいて財産を船に積んで国外へ逃走した。


 一方、レオ一世は元々は辺境の貧乏貴族の次男坊であり、この革命を足掛かりに台頭してついには皇帝に即位した。それだけに、古い歴史と高い格式を誇るルミュー子爵家にしてみれば忠誠を誓える相手ではない。マリアンヌほどではないにせよ、そうして内心で帝室を軽んじている貴族は少なくなかった。


 対して、ジャンヌの祖父であるエドゥアールは革命政府との調停役を買って出て帝国南部での流血の惨事を阻止し、レオ一世の軍隊には多くの伯爵家の男が身を投じている。その高潔さ故にレミ伯爵家は没落したと言う歴史家も居るほどだ。


 皇帝や旧領の民はレミ伯爵家に大きな信頼を寄せ、困窮する伯爵家に少なくない援助をしている。ルミュー子爵家の小作人になった人達でさえも、忠誠心は旧領主に向いていた。


 つまり、同じ名門貴族の娘でも、ジャンヌとマリアンヌには見えている世界が違った。貧しくとも立派で尊敬されるジャンヌと、裕福であっても傲慢で軽蔑されるマリアンヌ。あまりに対照的であった。


「金目の物だけを持って領民を捨てて逃げた家の娘だけのことはある。貴族の責任という物を知らないようだな」


「ふん。あんな成り上がりに仕えるほどルミュー子爵家は安くないわ」


「聞かなかった事にしておこう」


「あら、大物ぶって。チェスのクイーンにでもなったつもりかしら?獣の臭さがここまで漂ってくるわよ」


 その言葉を聞いた瞬間、ジャンヌの中で何かが切れた。そしてその次の瞬間、言葉ではなくジャンヌの白手袋に包まれた左の掌がマリアンヌの右頬をあらん限りの力で打ち付けた。


「他のどんな侮辱を許しても、飛龍への侮辱だけは許さん!」


 エントランスにジャンヌの怒声が響いた。2人が何者であるかを知るギャラリーの誰かが思わず口笛を吹き、静まり返ったエントランスが今度は止まらないどよめきに包まれた。


「この野蛮人!」


 ジャンヌの一撃に倒れたマリアンヌが、紳士に抱き起されながら鬼の形相で毒づく。


「黙れ!恥晒しめ!」


「こうなれば決闘よ!」


「男遊びしか能のない君が決闘だと?望むところだ」


 ジャンヌはマリアンヌを殴り倒した左手の手袋を脱ぎ、投げつけた。もっとも、白い手袋でマリアンヌを平手打ちした時点で決闘の申し込みとしては成立している。


「…恋人の受けた侮辱は男が代わりに晴らす物だ」


 顛末を黙って聞いていた紳士が歩み出て、手袋を拾った。つまり、この紳士がマリアンヌの代わりに決闘を引き受けるという事だ。


「いいだろう。受けて立つ」


 ギャラリーから万雷の拍手が巻き起こった。困ったのは芝居よりよほど面白い余興をエントランスで披露された劇場で、結局この日は休演となった。

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