第6章 勝手知ったる故郷の山

第28話 がんばれ!テオドラ

 フランコルム帝国の南東部国境を成す銀嶺山脈は、4000メートルを超える山が連なる交通の難所であり、同時に要衝である。


 山脈のかなりの部分は永世中立を標榜するへルヴェティア共和国が占めているが、同時にフランコルムは山脈を挟んでアペニン王国と接しており、山岳戦の研究は今や両国の陸軍における最大の関心事の一つである。


 帝国陸軍には山岳戦を専門とする山岳連隊が創設され、銀嶺山脈の厳しい自然との戦いが気象観測や測量と並行して絶えず行われている。


 とある3500メートルの高山の頂上近くで、山岳連隊の観測隊が小屋を建てて越冬訓練と気象観測を行っていた。そして、12月に入ろうという時に事件が起きた。


 隊長にして大陸随一の登山家として有名なクロード・ジャラベール大尉が、ある朝激しい腹痛に襲われて起き上がれなくなったのだ。


 随伴していた軍医が治療にあたったが、どうやら盲腸炎らしいという診断が下された。治療には外科手術しかないが、そんな用意はあろうはずもない。


 手旗信号の中継によって昼前にはこの事態は麓の連隊本部に知らされたが、連隊は困り果てた。麓から救援を送り込んでも3日はかかる。シャラベール大尉はこのままだと2日ともたないという話であった。


 山岳連隊は飛龍隊に助けを求めた。シャラベール大尉が助かる道があるとすれば、飛龍で然るべき医者と器具を送り届けるしかない。事態は一刻を争う。


「問題が3つある。飛龍が寒さに耐えられるかどうか、遭難のリスク、そして医師の人選だ」


 ブレスト指令は機密印の捺された銀嶺山脈の地図を指しながらそう切り出した。


「寒さは大丈夫です。飛龍は寒さに強いですよ」


 テオドラの一言で最初の問題は呆気なく解決を見た。飛龍は爬虫類でありながらその体温はほぼ一定で、冬眠をしない。人よりもむしろ寒さには強いというのがテオドラの説明であった。


「麓に到着するのは明朝だが、気象観測局によると雪は降らないが風が大変に強くなるらしい」


「俺が行きます。寒さには慣れっこです」


 モーリスが勇敢にも志願した。鯨を追いかけて極地まで航海する捕鯨船乗りであったモーリスは、確かに一見適任のように思えた。


「山岳地帯では時に予期せぬ乱気流が発生します。これは極めて危険でありまして、任務それ自体に賛成しかねます」


 ベップはそもそもこの任務の成否に懐疑的である。高山地帯ではまだ科学で解明できない不可解な風が吹くのをベップは知っていた。


「と言って、有名人のシャラベール大尉を見殺しにしたとなれば飛龍隊の名折れだ」


 ギョームも山の恐ろしさを経験として知っているので、出来ればこの任務は御免蒙りたいのが本音であった。


 しかし、命令は嫌でも拒否できないのが軍人である。そして、いくつもの未踏峰を制覇してきたシャラベール大尉を失う事が帝国の損失であるのも分かる。


「ですが大尉、失敗すれば飛龍が失われます。それだけは避けないといけません」


 ジャンヌは飛龍の喪失を恐れた。飛龍は金で変えない貴重品であり、それ以上に飛龍乗りにとってはかけがえのないパートナーである。


「力の弱い軽飛龍では無理です。乗る人間も少しでも軽くないと駄目です」


 テオドラが最も地に足の着いたコメントを添えた。結局のところ飛龍を一番知り尽くしているのがテオドラだ。


「だから私が行きます」


 だが、続く一言は誰も予期しない物であった。


「テオ、それは駄目だ」


「何で駄目なんです?私が一番飛龍にも銀嶺山脈にも詳しくて軽いじゃないですか」


 モーリスは理屈抜きで止めたが、テオドラの言う事はあくまで合理的で間違っていなかった。


「ふぬ。戦闘任務ではないし、フークは適任かもしれんな」


 ブレスト司令はテオドラの申し出を快諾した。


「それで、どの飛龍で行く?」


「一番力の強いアメジストで」


 アメジストとの死別するリスクを負わされるジャンヌは不安そうだが、テオドラの顔には恐怖は全く感じられない。


「問題は医師だ。随伴している軍医のラフィット少尉は外科手術の経験がないらしい。軍医局で適任者を探しているところだが、飛龍酔いと寒さに耐えれて尚かつ外科手術に長けた医師はそう多くはあるまい」


 ブレスト司令の視線は、平素あまり会議で口を出さないアハメド医師の方を向いていた。


「軍医局は良い顔はしないだろうなあ」


 アハメド医師は笑った。飛龍隊の医療を一手に引き受けているアハメド医師だが、あくまで獣医であって人の医者ではない。


「先生、本当に大丈夫なんですか?」


 テオドラは医学の知識はないが、獣医にして暑い南方大陸出身のアハメド医師にこの任務が務まるのか半信半疑である。


「テオドラ、俺が命を助けた騎兵で1個中隊が編成できるぞ」


 アハメド医師は人の医師免許は持っていないが、帝国でそれを気にする者は一人もいない。ブレスト司令を筆頭に騎兵畑の高級将校にはアハメド医師に助けられた人間は多い。


「決まりだ。総員至急準備にかかれ。1時間後には2人はアメジストで帝都へ飛んでもらう」


 飛龍乗り達の不安を他所にブレスト司令は2人の能力にいささかの疑念も抱いていないようだった。


 アメジストには不要な物を外せるだけ外して軽量化した鞍が乗せられ、防寒服に着替えたテオドラと鞄を抱えたアハメド医師が乗り込んだ。


 ジャンヌの不安と裏腹にアメジストは至って落ち着いている。テオドラとは長い付き合いなので当然と言えば当然なのだが、それが分からないくらいジャンヌは不安がっていた。


「軍人として間違っている事は承知だが、それでも頼む。任務より自分達の無事を優先してくれ」


「女伯さん。飛んで帰ってくるだけなら大した仕事じゃないですよ」


 アメジストが心配で仕方のないジャンヌをテオドラは軽くいなして飛び立っていった。


「いやあ、飛ぶってのは気分が良いな」


 汽車の車中で新聞を読みながらアハメド医師は上機嫌である。実はまだアハメド医師は飛龍で飛んだことがなかったのだが、飛龍酔いをした気配は全くない。


「けど先生、高く飛ぶと空気が薄くて息が詰まりますよ」


「テオドラ、俺の故郷は高原でな。なんなら飛龍乗り達より薄い空気には強い」


 アハメド医師は地図を広げ、端の方に見切れている南方大陸の故郷を指さした。アハメド医師はかの地から留学生として帝国にやってきて、そのまま軍に居着いているのだ。


「寒いところだと細菌が死ぬから手術には好都合だ。それより、間違いなく飛んで行けるんだろうな?」


「この山は他の峰から離れているから目立つし、変な風も吹きません。寒いのさえ我慢すれば平気です」


 テオドラが飛龍を飛ばし、アハメド医師が手術をする。どちらも自分の仕事には自信があったが、相方の仕事に不安が残る。だが、もう汽車は走り出していて止められない。


 翌朝早くに山の麓の街に汽車は到着した。山岳第1連隊長のベルトラン・タルボ大佐が駅のホームまで2人を出迎えてくれた。


「飛龍隊の協力を感謝する」


 そうは言いつつタルボ大佐の顔には緊張が隠せない。彼とてアハメド医師の手腕を知らないではないし、テオドラが飛龍と銀嶺山脈を熟知しているのも聞いているが、それでも目の前に居るのは17歳の少女と南方大陸人の獣医である。


「連隊長、シャラベール大尉の容態はどうなんです?」


「良くない。夜まではもたんという話だ」


「この時期のあの辺りは南からの風が強いですが、雪は降ってますか?」


「少し吹雪きそうだが、風はそれ程でもないらしい」


 それだけ聞いて2人はアメジストの乗っている貨車へ駆け出した。既に同行した地上班員がアメジストの飛ぶ支度は整えている。タルボ大佐は呆然と見ているしかない。


 貨車から出されたアメジストは駅員と出迎えの連隊の面々の敬礼に送られ、2人を乗せて飛び立った。目的地の山は目の前にそびえ立ってていた。

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