第25話 不信心者にレクイエムを…

 その頃、人生最悪の日をやり過ごそうと必死のイザベラは、礼拝堂を上から見て凸の字状に囲む回廊を這っていた。目的地などない。そんな事を考える余裕はとっくの昔に無くなっている。


 だが、イザベラはその曲がり角で突然後ろから誰かに抱き起された。これが飛龍乗りの誰かなら良かったが、今日のイザベルはどこまでも不幸で、抱き起したのナゼールだった。


「お前が俺をここへ入れたんだ。この際最後まで付き合ってもらうぜ」


 ナゼールが強がりながらナイフを喉元に突き付けた。そこへギョームとブレスト司令が駆けつけた。


「動くな!帝国臣民を天国に移民させてやるぞ!」


 ナゼールは壁にもたれかかり、イザベルの首筋をナイフが走らせる。男に触れさせたことの無いイザベルの肌に傷が付いて血が垂れ、イザベルは恐怖と痛みに悲鳴を上げた。


「お前がナゼールだな?もう逃げられんぞ」


 ブレスト司令がナゼールに投降を促す。


「ふざけるな!どうせ殺されるんだ。だったらこの尼さんの顔の皮を這いで、頭から被って神と皇帝に捧げる呪いのダンスを踊ってやる!」


 今日のイザベルに幸運があったとすれば、この恐ろしい脅し文句でついに失神した事だけであった。


「この畜生が!」


 ギョームが吹き上がる。だが、どう勘定してもイザベルを無傷のままナゼールを殺す事は不可能だ。このまま撃てば、ナゼールはイザベルの首筋にナイフを突き立てて死ぬだろう。


 だが、飛龍隊の人数を見誤った事にナゼールの致命的な誤算があった。回廊に面する部屋を反対回りで捜索していたモーリスとベップがナゼールの死角に付けたのだ。


 曲がり角から顔を出したベップとナゼールの距離は約10メートル。だが、射撃に弱いベップには仕留める自信がない。


「エスクレド君。私にはこの距離は無理です」


「そんな。俺だって自身ないですよ」


 モーリスは散々鯨を撃って来たので射撃の成績は優秀だが、人質を抱えた人間を撃つとなると話が違う。これは別種の覚悟が必要であり、失敗が許されない。


「私では修道女を撃ちかねません」


「けど、あのままだと…」


 小声でしばし言い争った二人だったが、その間にもナゼールの恐怖の演説は、イザベルの首筋にナイフを往復させながらどこまでも続く。


「どうしたこの犬ども?見殺しか?だったらお前らも同罪だ!あの嘘まみれの羊皮紙の塊に隣人愛ってのが書いてあっただろうが!」


 ナゼールは今やヤケになり、帝国と十字派を冒涜する言葉を絶え間なく怒鳴り散らしている。説得が不可能なのは誰の目にも明らかであった。


「よし、ならこれだ」


 モーリスはある種の閃きと共にサーベルを抜いた。


「エスクレド君、それはいくら何でも無謀です」


「捕鯨船乗りのやり方でやります」


 モーリスはそう言い残してサーベルを振りかぶりながら曲がり角を飛び出すと、ナゼールの右側面からあらん限りの声で叫んだ。


「ナゼール!」


 回廊は声が響き、モーリスの大声は居合わせた6人には砲声よりもうるさく感じられた。信じがたい不幸だが、イザベルさえ目を覚ます程であった。


 反射的にナゼールはナイフを声のした右側に向けた。その瞬間、モーリスが叫びながら投げつけたサーベルが飛んできた。


 先祖代々銛で生計を立てていたモーリスの狙いは正確であった。サーベルはナゼールの右脇に鍔まで深々と突き刺さり、切っ先が左脇まで突き抜けた。


 串刺しにされたナゼールの断末魔の悲鳴をギョームの拳銃がかき消した。弾倉に残っていた5発全てが崩れ落ちるナゼールの身体に突き刺さり、その死をより明確かつ惨たらしい物にした。


「地獄へ落ちろ」


 モーリスはイザベルの身体を傷つけたナゼールを深く軽蔑し、こう吐き捨てた。


「地獄の実在性はさておき、実在するならばこの男は地獄も断るのではありませんかな?」


 ベップは珍しいジョークを残し、ジャンヌの入って行った台所へと援護に走った。


 少し時間は前後する。ブルガンはナゼールより効果的な悪あがきを思い付き、ナゼールの居る地点とは反対側にある台所へと走った。


 そこには修道女が閉じ込められている地下室と、自爆に備えて1発の砲弾が置かれている。


 ブルガンはランプに火を点けると地下室に続く床板に乗せてある重石をどけ、床板を外して砲弾を地下めがけて落とした。


 何しろ砲弾は火薬の詰まった鉄の塊である。幸い誰にもぶつからなかったが、そんな物が降って来たので地下室は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


「おい、今落としたのは砲弾だ。台所ごとぶっ飛ぶ威力だぞ!」


 そう凄みながらブルガンはランプと拳銃を持って地下室へのはしごを降りた。人質の数はナゼールの数十倍、おまけに砲弾があり、攻めにくく守りやすい地下である。


 だが、人質があまりに多かった点がナゼールより悪条件であった。地下に降り立ったナゼールに手を縛られた修道女が殺到したのだ。


 修道女が男に触れてはいけないが、こういう場合は神も許すだろう。とにかく、地面に引きずり倒されたブルガンの上に次々と修道女が折り重なるようにしてのしかかった。


 ナゼールが命運尽きる少し前にジャンヌが台所に到着した。だが、地下室を覗くとそこは折り重なった修道女で文字通りの黒山の人だかりである。


「逃げ込んだ男は!?」


「地獄に落ちました!」


 リジェ院長の返事に応じて修道女達がどくと、そこではブルガンが窒息死していた。


「これは、何が起きたのです?」


 遅れて駆けつけたベップが同様に地下室を覗き込むと、ブルガンは不可解な死を遂げていて、もうジャンヌが修道女の拘束を解き始めている。


「修道女達が折り重なって殺したそうです」


「それはまた。ご婦人とは恐ろしいものですな」


「神はお許しになるでしょう」


 リジェ院長がそう言いながら先頭切って出てきて、ベップはこれに敬礼で応えた。


「しばらく台所へ入っていてください。まだ敵が居る可能性があります」


 ブレスト司令がこれに続き、泣いているイザベルと、モーリスがベールで顔を隠して連れて来た本物のマリーを台所へ入れ、飛龍乗り達は回廊に出た。


「それで、各自何人倒した?」


「俺はナゼールだけです」


「私は2人」


「4人と半分。ナゼールは俺とエスクレドの共同戦果だ」


「山砲は今頃不本意な死を遂げているはずです」


「私が2人、表でアメジストが1人、修道女達が1人。計算は合うな」


 ギョームはサーベルを鞘に納め、全員がこれに続いた。


「ギャンブルはひとまず、我々の勝ちだ」


 死体と山砲だった鉄塊は憲兵によって速やかに運び出され、数日に渡って修道女総出で血の掃除が行われ、間もなく皇帝の計らいで大司教が派遣されて修道院は清められた。


 反乱軍の死は演習中に山砲が暴発して事故死したという名目で処理され、僅かな目撃者への口止めをもって事件は闇に葬られた。


「勝利に乾杯!」


 片付けを終えて本部に戻った飛龍隊は、初雪亭に残ったワインを持ち込んで乾杯した。栓を開けて数日置いたので不味くなっているはずだが、どんな酒よりも美味く感じられた。


「エスクレド。見事な一撃だったが、サーベルはどうなった?」


「酷いもんですよ。あばら骨にぶつかったらしくて」


 ギョームに問われてモーリスはサーベルを抜いた。刃も峰も酷く傷付いている。地上班員はこれに驚きの声を上げた。


「砥ぎに出すなら峰の傷は直さないように頼め。それは名誉の証だ」


「おやっさんのサーベルは大丈夫なんですか?」


「サーベルを傷つけないようにするのも腕だからな。お前も長く生き延びればこの域に達するぞ」


 モランに改めてスパークリングワインを用意させ、飛龍乗り達は本格的な戦闘任務を完遂した喜びに浸った。


 だが、勲章どころか地上班員に手柄話も出来ない。それでも戦闘を潜り抜けた飛龍乗り達は満足げであった。


「女伯さん。教会から見てましたけど凄かったですよ」


「もう一度は御免だな。第一、罰当たりだ。テオドラなら分かるだろう?」


「そりゃあそうですけど、格好良いですよ」


「罰当たりとは聞き捨てなりませんね」


「申し訳ないですが詳しくは神父様にも話せません」


「従軍司祭にはよくある事です」


 コクトー神父は深く追求せず、ピアノで軍歌を奏でて影ながら飛龍隊を祝福する。一番の危険を負ったジャンヌの偉業は、やがてどこからか秘かに世に漏れて歴史に残るだろう。


「ハイゼルベルグ女史。貴女は死後の世界があると思いますか?」


「どないしましたの?神学でっか?」


「死生観となると哲学の領域でもあります。貴女の見解を知りたい」


「そうですな。そら信心深い子に聞かれたらあると言わないけまへんけどな…」


「死後の世界か。それなら俺の故郷の民話に興味はないか?」


「おお、流石はアハメド博士。南方大陸の独自の宗教には大変な興味が…」


 人こそ殺さなかったが、自らの作戦によって学術的な範囲を飛び越えて本格的に死に直面したベップは、差し当たって一番面白い見解を持っていそうなロッテ先生に謎めいた問答を持ち掛けた。


 だが、長くなるのは明白なので、アハメド医師がこれを引き受けた。ベップは柄にもなく少し感傷的になっている。


「モラン。そのボトルは洗ったら私の所へ届けてくれ。司令室に飾る」


「飛んで行った先で何をしたのかは知らぬ話ですが、こんな安酒に何の義理があるのです?正直に申しますと、かかるワインに似た何かは私の美学に反しますよ」


 モランは空のボトルを手に不思議そうな表情を浮かべた。この安ワインはモランの眼鏡には適わないらしかった。


「記念品とは、往々にして他人の目にはぱっとしない物だ」


「おや、閣下は案外詩人でらっしゃる」


 実のところ、一番この任務に達成感を抱いているのはブレスト司令かもしれない。少将にもなって敵と直接刃を交える事など滅多にある事ではないし、自分には二度とその機会は訪れないと思っていたのだ。


 翌日からボトルは司令室の棚に記念品として飾られ、飛龍隊の歴史の一部となった。イザベルが信仰を捨て、親の勧める縁談に応じて修道院を去ったと飛龍乗り達に知らされたのは、その数日後の事であった。

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