剣聖と剣聖の娘と悪いお嬢様と

一江左かさね

プロローグ アイリスは悪い令嬢

 フェイスタ王国の中央に位置する都市。

 遙か高みから見下ろせば四方を城壁に囲まれ、北の端に白亜の城があり、そこから広がるように色とりどりの屋根が無数に散っていた。所々に憩える緑の敷地も存在するそこを、灰色をした道が区切って、大まかに地域を分けている。

 しかし一番目を引くのは水の流れだろう。

 都市を北から南方向へ斜めに貫く運河と、そこに繋がる細い太い様々な網の目のような水路が存在し、不思議な模様を描きだしていた。

 空の陽が真上に到達しかけた頃合い。

 日射しに輝く水の流れの脇の、林に囲まれた簡素な家。庭と呼ぶには殺風景な開けた空間で剣を振るう男の姿があった。諸肌脱ぎの上半身は華奢にも見えるが、しなやかに鍛えられ、薄く汗が浮いている。同じ動作で剣の型を繰り返し、しかし飽きる様子もない。

 一方で簡素な家の軒先にある石に腰をおろした少女は、飽きた様子で自分の膝に頬杖をついていた。軽く欠伸をして、剣を振るう男の姿を眺めている。よくある庶民の革を用いた服を身に着け、年の頃は十を少し過ぎた幼さだ。

 その幼さに似合った様子で、愛嬌と可愛らしさのある顔の頬を不満げに膨らませ、口を出すタイミングを待っている様子だった。

 頭上を黒い鳥の群れが鳴き交わしながら飛び去って、それがタイミングとなった。

「ねえねえ、あのね。そろそろお昼ご飯の時間なのよ」

 剣の動きが止まったところで、少女はふて腐れ気味に言った。

「お父さん、私っていう育ち盛りの大事で可愛い娘のこと忘れてない?」

「うっ、そう言えば……いやいや、あれだ。きっと心優しい娘が何とかしてくれるに違いない、とまあ期待しているのだ」

「とっても心の優しい娘は、何も考えていませんよ」

「ならば、俺が何とかせねばならんな。はっはっは」

 グライドは、娘フウカに対し誤魔化すように笑った。剣を振るっていた時の厳しさや真剣さとは打って変わって、陽気で軽薄そうな様子だ。そうすると案外と愛嬌がある。諸肌脱ぎだった服をしっかり着直せば、顎に手をやって、今度は真面目な顔で軽く唸る。

「しかし問題がある」

「そうだよね。そろそろ食料が尽きるって問題があるんだから。ついでに言っちゃえばだけど、食料を買うお金も尽きてるのが一番の問題だと思うの」

「それは困った」

「そう困ったね」

 親子は顔を見あわせ、揃って小さく息を吐いた。しかしフウカの方が立ち直りが早い。

「でも、仕方ないよね。お腹空いたし、料理をしてご飯にしようよ。私も手伝うから」

「心優しい娘に感謝するとしよう」

「当然よね!」

 フウカは楽天的な声で、勢い良く跳ねるように立ち上がった。両手を握って気合いまで入れている。前向きな性格と言えるかもしれない。

 青空には白雲が多くあり、やや厚めの雲が強い日差しを程よく遮って、地上には柔らかな光が注がれる。穏やかな風が運河の涼しい空気を陸地に運び、程よく過ごしやすい午後だった。


「さあ、お昼は何にしよう。困った時のスープでどうかな?」

「しかし具が殆どないからなぁ。どーれ、少し魚でも釣ってくるとするか」

「そんなの、今からだと遅くなっちゃうよ。直ぐに釣れるとは限らないし。それだったら、林の辺りで食べられそうな草を探した方が――」

 お昼の料理を相談しつつ、家に向かおうとしたフウカの動きが止まった。その視線は林の間の小道に向けられており、グライドも同じ方を見た。

 すたすたと、長い髪を揺らし、緑に挟まれた道を近づいて来る少女の姿がある。

 銀色の髪は白さを宿し、その長さは膝ほどまである。

 十代の半ばを過ぎた年頃だが、幼さを僅かに残す顔立ちは美しく整って、これからますます美人になっていく事は間違いないだろう。淡く薄い紫色をした瞳の目は、やや鋭さがある。やや小柄で華奢な身体に黒のワンピースを身に付け、首元や袖に金ボタンをあしらった丈の短な白い上着を羽織っている。

 フリルのついた黒いスカートを翻す歩き姿は優美なものだが、それに似合わぬ長大なハルバードを背負っている点が、ちょっと違和感があった。

 グライドとフウカは軽く目を開き、意外さと驚きを混ぜた顔をした。

 この少女の事は知っている。つい先日、何者かに襲われているところを助けてやったのだ。しかしその時は名乗りもせず、さっさと立ち去っている。どうしてこの場所を知っているのか、どうしてこに来たのか。それが分からなかった。

「こんにちは、アイリスなのです」

 少女は白く輝く銀髪を揺らし、礼儀正しく両手を揃え頭を下げた。これにグライドは剣を鞘に収めつつ、驚きの顔になった。

「いやいやいや、どうしてここが分かった!?」

「助けてくれた恩人に会いたいと、アイリスは街の人に、その恩人の人相風体を尋ねて回りました。すると十三人目に尋ねた人が知っていると、教えてくれたのです」

「……この前に助けた時の事を忘れたのか? 不用心に出かけないようにと言ったはずだが。まだ一人で動くには危ないと思うのだがな」

「はい、ですからアイリスは十分に用心をしています」

 ちょっと偉そうに胸を張ってみせるアイリスだが、なにかどこかズレている気がした。同意を求め向けたグライドの視線に応え、娘のフウカは肩を竦めている。特に何も言うつもりはないらしい。


 対応を任されたグライドに、アイリスは遠慮なく近づいた。

 両者の身長差は、頭一つ以上。

 グライドが長身という事もあるが、アイリスはかなり小柄。そのため、くいっと下から見上げねばならない。淡く薄い紫色の瞳は、じっと睨むようにグライドを捉えて放さない。

「アイリスは怒っています。何故だか分かりますか」

「さ、さあ?」

 困惑するグライドは、小さな手でぺちぺち叩かれ折檻されてしまった。もちろん愛娘に視線で求めた助けは無視されている。

「アイリスはお話しをしたかったのです。ですがグライドは、アイリスを助けた後、さっさと行ってしまいました。だから怒っているのです」

「…………」

「けれど、アイリスが一番怒っているのは、そこではないのです。アイリスを助けた理由が暇だったからと、そう言われた事に、とっても怒っているのです」

「待て待て、それではどう言えば良かったと!?」

「それは自分で考えて下さい。とにかく、女の子を助ける理由は、もっと素敵でないとダメなのです。わかりましたか?」

 グライドは、いまだかつてない困惑を感じていた。

 これは面倒な相手に関わったと思ったのだが、それが顔に出てしまったのか、もう一度折檻されてしまう。アイリスという少女は、なかなか目聡いらしい。

 横で様子を見ていたフウカは、小さく息を吐いた。

 自分の父親を情けなく思ったのか、遠慮のないアイリスに呆れているのか、その両方なのかは分からない。

「もしかしてだけど。そんな文句を言うために、わざわざお父さんを探したのかな?」

「いいえ違います。文句は目的の半分です」

「半分ね。でも、お父さんが言ったように。まだ危ないって、私も思うわ。お姉さんって貴族なんだよね。だったら、護衛を付けないとダメじゃない」

「ですから護衛を雇いに、ここに来ました」

「ええっと……どういう事なの?」

「グライドをです」

 二人の会話を聞いて、グライドは確実に自分が厄介事に巻き込まれたと悟った。


「あー、それはトリトニア公が雇いたいということかな」

「違います。お父様には、アイリスは何も言ってません。それは面倒……いえ、心配をかけたくないので。ですから、アイリスが自分でグライドを雇うのです。これを、どうぞ」

 小さな手がポケットから取り出したのは、楕円形をした透明なライトクリスタル。サイズは小さいが、純度と透明度は高い。宝石の価値には詳しくないが、そこそこの価値があるのは確かだ。さっそく、目の色を変えたフウカが身を乗り出している。

「うわぁ綺麗! これ売ったら半年は暮らせるよ」

 即物的な娘の反応に、苦労を掛けすぎたと不憫に思うべきか、育て方を間違えたと哀しく思うべきか、グライドは少し悩んでしまった。そうとは言えど、目の前に差し出された宝石は、グライドにとっても魅力的なものだ。

「相手は、また襲って来るのです。近く開かれる学園の武闘大会までに、アイリスが襲われる事は確定事項なのです」

「どうして、そうも言い切れのかな?」

「本来であればアイリスが雇い襲わせるものを、アイリスはそれをしませんでした。だから、運命の流れとしてアイリスが代わりに襲われるのです」

「意味が分からないのだが……」

「知らないかもしれませんが。アイリスは悪い令嬢なのです」

 口の両端を上げ、なにか不思議な笑みを浮かべている。

 瞬間、アイリスという少女にあった幼さというものが全て消え去り、美しい厳かさを持つ何者かになった。グライドが思わず目を見張って驚くぐらいの、何か得体の知れぬ迫力が宿っている。

 小さな手にのせ差し出される宝石。不思議な事に、それを手にするかしないかで、何か大きなが選択されてしまうように思えた。

 その日その時、運河の脇の林の中の一角に、その三人はいた。

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