第3話
まさやの予期せぬ来訪により、恵美の頭の中はパニック状態だった。
向こうのペースにのせられてお茶を出す流れになったが、長居をされては困る、本当に困るのだ。何とか理由をつけて追い返す必要がある。
不慣れな階段で何度か滑りそうになりながらも、恵美は急いでダイニングへ降りた。
ここもさっきの部屋と同じように、綺麗に整理整頓されている。
頭の中に華奢で可愛らしい
突然湧き上がって来た卑屈な思いを吹き飛ばそうと、恵美はわざとらしく音を立ててダイニングに侵入した。
ちょうどテーブルの上に紅茶セットが並んでいたため、いちから準備をする手間が省けた。
恵美はそれを持って再び慎重に階段を上った。
☆ ☆ ☆
「ちょっと勝手に電気つけないでよ!」
恵美が大声を上げたので、まさやはきょとんとした顔をして振向いた。手元を見ると、転がった鉢植えを綺麗に片付けている最中だった。
「あ、すいません。でも真っ暗だとお互いの顔もちゃんと見えないし。……それに、ヒーターもいれちゃいました。寒かったから」
肩を竦めて困ったように笑った。
恵美は憮然とした態度でまさやの前に紅茶を置くと、自身もテーブルを挟んで真向かいに腰を降ろした。
「お。このカップって高いやつですよね?」
「さぁ。私の趣味じゃないし」
まさやは大切なものを受け取るようにうやうやしく両手でカップを抱き、一口啜った。
「おいしい。アップルティーですね。やっぱハイソな生活だと飲む物も違うんですね」
「飲んだらとっとと帰ってね」
「もう、お姉さんったらつれないなぁ」
「お姉さんって呼ばないで!」
「じゃ、
調子が狂う。鈍感なのだろうか。まさやは恵美の刺々しい口調に気付いていないようだ。それともわざと無視しているのか、だとしたら相当したたかな男だ。
まさやがあまりにも人懐っこいので、恵美は完全にリラックスモードになって遠慮なく相手を見た。
ダッフルコートの下に着用していたのは、シンプルな黒のセーターと動きやすそうなカーキ色のストレートパンツ。
コートの上からでは判断が付かなかったがやはり体形は細身だ。けれど決して貧弱ではない。カップを持つ手からセーターの裾へ伸びた腕のラインが引き締まっていて美しい。何かスポーツをしているのだろう、雰囲気からはそう感じさせるものがあった。
恵美がじろじろと見ていることに気付いたのだろう、まさやがカップから顔を上げる。驚いた恵美が慌てて顔を逸らすと、まさやは苦笑してカップを置いた。
「ストーカーは、
「どういう意味」
まさやはポケットから四つに折りたたまれた紙を取り出し、恵美に見えるように机に置いた。
《オ前が 幸せニなる権利はナィ 光ガあれバ 闇があルことヲ覚えてオケ!》
急速に体が冷えていくのを感じた。
「あんた……これ…」
「学習机の上に置いてありました。勝手に読んですいません」
すいませんという割には、全く悪びれた素振りも見せない。出しっぱなしにしていたとはいえ、他人の手紙を勝手に読むとはどういう神経をしているのだろう。恵美はなんとか苛立ちを抑えようと、ゆっくり深呼吸をする。
まさやはそんな恵美の心境などお構いなしに優雅に紅茶を一口啜り、顔を上げた。
「相当恨まれてますよ、
無邪気にそう言った。
その言葉を聞いた恵美は、唇をギュッと噛み締め、憎々しげに手紙を握りつぶした。
「犯人、心当たりないんですか?」
「……ないわ」
「ん~。
ずけずけとしたまさやの物言いに、ここまで大人の対応をとってきた恵美の怒りが限界に達した。非難の意味も込めて無言で相手を睨みつける。
その視線にようやく気付いたまさやは、気まずそうに言葉を付け足した。
「幸せを絵に描いたような斎藤一家には縁のないことですよね。確かおじさんって会社を経営してるんでしたっけ?」
「そうよ」
「すごいなぁ。立派じゃないですか」
その言葉を聞くなり鬱陶しそうに顔を顰めた恵美。その様子を見て、まさやも居心地悪そうに口を閉じた。
場の雰囲気が悪くなりはじめているが、こんな状況であっても彼に帰ろうという気は起きないらしい。
こともあろうにズボンのポケットからスマホを取り出すと、恵美の存在を無視して派手な音を立てながらゲームを始めた。
あまりにも失礼極まりないまさやの態度を前にして驚きを隠せない恵美だったが、わざとらしくため息をついて目を細めた。
仕方ない、ここは持久戦。意図的に気まずい空気を作り出し相手から降参の声を引き出そう。
そう決心した恵美は、まさやの言葉に返事を返さないことに決めた。相手がどれだけ鈍感な男でも、この空気に耐えられるはずがない。
すぐに帰り支度を始めるだろう――。
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