持続可能な世界を目指して

Hiro

第1話

 地球温暖化に象徴される人類による環境破壊は、悠久の時の中でこれとは比べものにならぬ大変動を経てきた地球にとっては大した問題ではないのかも知れない。しかし、地球という星に生まれた生命、殊に人類と同時代に生きる様々な種にとっては存続の危機とも言える大問題である。そして、その最大の要因は人類の人口増加である。産業革命以降の人口爆発がなければ、人間活動の地球に及ぼす影響は自然の浄化作用によって許容される範囲に収まっていたかも知れない。科学技術の発達に伴う人類の繁栄は、この範囲を遙かに超えてしまった。

 さて、この繁栄という言葉、果たしてこれは幸福と同義であろうか。ユバル・ノア・ハラリは著書「サピエンス」の中で面白い指摘をしている。牛や羊と言った家畜は人類に飼われることにより個体数を増やし、種の存続をより確実なものにしている。しかし、食用その他の目的のために自由を奪われ、時に天寿を全うすることも許されぬ彼らが幸せだと言えるだろうか、と。ペットとして飼われる犬や猫も同じである。野山を駆けまわる自由と引き替えに、彼らは日々の糧と安全な住処を保証される。彼らにとって、厳しい自然環境の中で暮らすことと人間社会の安寧に身を委ねることのどちらが幸せだろうか。種の存続が地球上に存在するあらゆる生命の至上命題であるなら、家畜やペットは現世界において成功している種ということになる。不条理に命を奪われることがなく、毎日安穏と暮らすことが出来るのなら、家畜もペットも幸せなのかも知れない。しかし、それは自由という果実の味を知らぬが故の幸福であり、自らの運命を他者の手に委ねて生きることである。自由が幸せをもたらすものではないとしても、無知であることが幸せだと言い切ってしまうのは人間の驕りではないだろうか。

 それとそっくり同じことが人間自身に対しても言える。科学技術のもたらす繁栄を享受する人類は、地球生命史上最も成功した種と言ってよいであろう。しかし、歯止めのかからぬ人口増加が人類を幸福にしているとは言い難い。種の繁栄が種族全体の幸福につながらないのは、家畜やペットの場合と同じである。幸福という概念に絶対的な基準などないことを思えば、知らないことはやはり幸福なのかも知れない。だが、自らの繁栄が自らの生存環境を著しく毀損している現状を憂えるなら、人類は知らねばならない。数を増やすことが幸福に至る道ではないことを。

 物質的な豊かさを幸福の指標とするなら、現在幸福を実現しているのはむしろ人口の少ない国、もしくは資本主義制度の下成功を収めたごく少数の人々であろう。いずれもピラミッド型階層社会の頂点に立つ国、または人々である。中世以降の封建社会は現在も形を変えて生き残り、万民の平等と幸福を謳う民主主義の理想は未だ夢の彼方にある。資本家と労働者、持てる者と持たざる者を峻別する資本主義の内包する矛盾は十九世紀に既にマルクスによって指摘されていたが、二十世紀、当のマルクスの説いた社会主義・共産主義の台頭が、これに対立する社会システムとして資本主義を生き長らえさせた。ソビエト連邦をはじめとする共産主義国家群の崩壊は、あたかも資本主義の正しさの証明であるかのごとく見えたが、二十一世紀、民主主義の仮面を脱ぎ捨てた資本主義は暴走の兆しを見せ始めた。そもそも両者の理念と実相を比較すれば、民主主義と資本主義が社会制度として共立し得ぬことは容易に予測できたはずだ。イデオロギーとして民主主義と相性が良いのはむしろ社会主義であろう。社会民主主義という形である種の理想社会を生み出している国もある。しかし、そうした国々でさえ結局は資本主義社会の頂点に立っているに過ぎない。

 資本主義の発展が人口増加の要因となっていることもまた、容易に説明がつく。労働力を駆ってモノを大量生産する資本主義は、より大きな市場を求めて拡大してゆく。グローバル化により地図上のフロンティアが失われた現代において新たな市場を生み出す方法は人口を増加させることである。視点を変えれば、人類は資本主義の要請に応じて自ら数を増やしているように見える。これは家畜が人間の都合のために数を増やすのと同じだ。資本主義のもたらす大量生産の恩恵にあずかり、人類は物質的な豊かさを享受できる。これは我々人類が資本主義という制度に飼われているということではないのか。医療の発展も食料の充実も住環境の改善も、実は我々の真の幸福とトレードオフの関係になっているのではないか。我々は資本主義の行き着く先を慎重に見定める必要があろう。

『ホモ・デウス』の中でユヴァル・ノア・ハラリはさらにこう述べている。幸福感は脳への刺激によって人工的に生み出すことが出来る、と。実験用のマウスの脳に電極を埋め込み、ペダルを踏むと電流が流れ、セロトニンやドーパミンといった快楽物質が脳内に分泌される仕組みを作ってやると、マウスは傍らに置かれた餌には目もくれず、死ぬまでペダルを踏み続けるという。幸福感が人工的に生み出せるという指摘は示唆的だ。これを是とするならば、アルコールや薬物への依存もスマホ中毒もギャンブル中毒も、皆脳内快楽物質を誘引するための手段と考えることが出来る。ならば、頭の中に電極を埋め込むことは、肉体の健康や社会生活を損なうことなく快楽を得る合理的な方法となりうる。科学万能の現在、人類はさらに、これまでは逃れ得ぬ運命であった死さえも克服しようとしている。バイオテクノロジーによって肉体を不死にすることによってか、肉体をサイボーグ化することによってか、もしくは機械化人間になることによってか、死を超越しようとする人間は今や自らを神になぞらえているかのようだ。

 しかし、この考えには人間の本性とは相容れぬいかがわしさが漂う。科学は既に神を凌駕し、神は過去の遺物と化したかに見える。しかし、科学は人間を真の幸せに導くことが出来るのか。真の幸福と快楽物質によって得られる幸福感は似て非なるもの、いや、全くの別物だ。幸福に至る道はそれほど簡単なものではない。キリストはなぜ博愛を説いたのか。釈迦が悟りを開くのに辿った道が平坦ではなかったのはなぜか。科学万能の今こそ、その意味を問い直してみるべき時ではないか。神や仏はそう簡単に棄ててよいものではないだろう。


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