第9話 夜会

 私の王太子妃教育は順調に進んでいきます。

 婚約者のお披露目の夜会も正式な日時が決定し、そのための準備も急ピッチで進められました。

 私は、あの日以降も婚約者としてのお役目を真摯に果たしています。殿下も、よりいっそう仲の良い恋人同士に見えるよう務めていらっしゃるようで、世間の人々はきっと、この婚約が本当に格差婚約だったのか疑問に感じ始めているでしょう。


 一方、私は、先日心に決めたように早く私の進むべき道を殿下にお話するべきなのですが、なかなかその機会がありません。

 それに、婚約破棄後の話をするということは、ある意味報酬をねだっているようにも受け取れます。きちんとお役目を果たし終えないうちにそれを口にすることは、私の矜持が邪魔をしてやはり気が進まないのです。

 夜会の出来がよかったら、きっと私は自信をもって殿下にこのお話をすることができるでしょう。

 私は、この夜会を終えてから殿下にこの話をすることに決めました。


  ◇◇◇◇◇◇


 そして、念入りに準備を進め、私達は、婚約者のお披露目ともいうべき夜会の日を迎えました。

 今回の夜会は王宮全体を使って行う大規模なもので、高位の方を中心に非常に多くの貴族が招待されています。

 私達は皆の前で紹介され、祝福を受け、ファーストダンスを踊りました。

 参加者が多いため、個別の挨拶の時間は十分に取れず、親しい人と話す時間は残念ながらありません。

 殿下は、多くの人と話すより、むしろ仲の良い姿を多くの人の目に焼き付けるという作戦をとることにしたようです。


「サリア、こっちへ。噂話が好きな侯爵夫人がいるよ」


 夜会も終盤になり、私達は陛下に挨拶をしてお暇を頂きました。その後、恋人として二人きりの時間を思い思いに過ごす設定なのでしょう。私達はあちこちに姿を見せて回ります。次のターゲットは侯爵夫人の様です。

 殿下は最近は、私の事を名前で呼ぶようになりました。私にも名前呼びをするようにとおしゃられるのですが、これがなかなか難しいのです。どもりながら一度名前で呼ぶと、努力してくれればいいよ、と何だか微妙な表情でダメ出しを頂きました。頭の中では言えるのですが、まだまだ精進が必要なようです。

 私は、殿下の腕に手を絡ませて、微笑みを浮かべます。

 もちろん視線は殿下の顔から逸らしません。これがポイントです。

 殿下に腰を支えられてテラスへ出ると、夜風が心地よく頬を撫でます。

 きっと、私達がよく見える位置に、侯爵夫人や女性たちの一団がいるのでしょう。


「そうだ、サリア。この夜会が終わったら色々一段落するだろう。今度、湖水地方へ避暑に行かないか? 別荘があるんだ。舟遊びもできるよ」

「まあ、素敵ですね。最近舟遊びが流行っていると聞きました。先日レイアとクアッド様も……」


 気が緩んでいました。私ははっとして口をつぐみます。

 あの日以来――クアッド様との関係を疑われて以来、レイアと家を行き来するのも避けていたし、話題にものせないようにしていたのに。

 殿下は、優しく微笑みます。

 瞳に昏いものが浮かんだような気がしたのは気のせい?


「クアッドたちも楽しんだようだね。じゃあ、これがうまくできたらご褒美に連れていってあげるよ」

「これ?……んっ」


 殿下はテラスの手すりにもたれた私の体に覆いかぶさるように近づくと、唇を重ねました。

 私は目をつぶります。

 この一か月、練習も含めて、何度もキスを繰り返してきました。

 これは、お役目なのです。

 私は、以前ほどパニックにならずに殿下からのキスを受け入れることができるようになっていました。


「口、あけて」

「え?」


 突然、生暖かいものが口の中に入り込んできて、私はとっさに目を開けて体を離そうとしましたが殿下の手が首の後ろを押さえていて、離れることはできません。

 何が起きているか分からず頭がくらくらしてきます。

 どれだけたったのか、気づいた時には私はテラスの隅へずるずると座り込んでいました。


「上手にできたね――避暑の手配は僕の方でしておくから」


 かっと頭に血が上ります。

 こ、ここ、これが世にいう大人のキスというものなのでしょうか!

 しかし、練習もなしにいきなり人前でこれはないです。

 きちんと演技できたか自信がありません。

 でも、褒められた、ということはきっとひどい出来ではなかったということなのでしょうか。

 座り込んだままパニックになりそうな私を他所に、殿下は、伝言を伝えに来た侍従と何か話し込んでいるようでした。


「サリア、すまないけど、少し行かなければならない。すぐに戻るからここにいてくれる? 今の君の姿を誰かに見せるわけにいかないからね」


 最後の一言を耳元で囁かれて、私がさらに顔を赤くすると殿下は満足したようにくすりと微笑んで出ていかれました。

 落ち着かなければなりません。

 胸に手を当てて息を吸って吐いてと繰り返す私の感覚の端に、その時、びりっと何かひっかかるような気配がします。

 私は胸に当てた手をぎゅっと握り締めました。


「……なんでしょう、師匠」

「いや、ちょっとお取込み中だったから、出るに出られなくてさ」


 私は、顔を覆ってうつむくしかありません。きっとレイアもいつもこんな気持ちだったのでしょう。激しく同情します。


「いや、結構集中してると気づかないものなんだよね。僕も経験があるけど」

「……っ、もういいです!! 黙ってください!」

「いやあ、君がそこまで取り乱すなんて、ある意味すごいね、殿下は」


 いつもの仕返しとばかりに続けるクアッド様は本当にお人が悪いです。

 もう、なんてことでしょう。

 私の顔は、赤いなんてものではないでしょう。


「でも、よかったよ。レイアに、サリア嬢が悲しそうな顔をしているから様子を見に行って来いって言われてさ。その分なら大丈夫そうだね」

「な、何が大丈夫そうだとおっしゃるのかしら」


 こんなところを見られるなんて、ぜんぜん大丈夫じゃありません!!


「いや、君が婚約破棄とか言ってたから、僕も心配してたんだ。まさか本気で言ってるのかって思うじゃないか」

「?」


 クアッド様が何を言ってるのかわかりません。

 婚約破棄は決定事項なのに。本気に決まっています。


「ほら、あの話だよ。婚約破棄後、魔塔へ行きたいから推薦して欲しいって……」

「そういうことか」


 その声は、テラスの入り口から響きました。

 そこには、テラスへ戻られた殿下の姿がありました。


「今、ヤリス公爵から話を聞いたよ。君が、婚約破棄するつもりだって」


 私は息を飲みます。私が自分で伝えるはずだったあの夢は、伯父様から殿下へ伝わったようです。


「本気で、魔塔へ行きたいの?――いや、そんなにクアッドの側にいたい?」

「え?」

「――僕じゃ、君を引きとめられないんだね。すまない。少し、考える時間が必要なようだ」


 混乱して答えられない私に悲しそうに微笑むと、殿下はそのまま私とクアッド様を残して、テラスを去っていきました。その後ろ姿ははっきりとした拒絶の空気をまとっていました。


 クアッド様とのことをはじめに誤解させたのは、私です。

 それを解く努力をしなかったのも。

 そしてクアッド様の方を見ないでほしいという約束も、この状況では破ったように見えても仕方ありません。


 ――私は、殿下を傷つけてしまったのです。


 呆然とする私に最初に口を開いたのはクアッド様でした。


「君さ、本気で魔塔に行きたいって思ってる?」

「――ずっと夢だったのです」

「じゃあさ、なんでそんなに悲しそうな顔してるの? 殿下に誤解されてることを気に病んでるみたいだけど、本当に魔塔に行きたいなら、別にいいんじゃないかな。俺を好きってことにしておいた方が、婚約破棄もスムーズだろうし、魔塔へも行きやすいよ」


 そうです。この先も魔術誓約によって、私はクアッド様との関係を話すことができません。婚約破棄して魔塔に入るという結果は同じなのですから、誤解を解いても大した意味がないのです。

 でも。

 涙が落ちました。

 こんな愚かなことで、なぜ悲しくなるのでしょう。


「もう一度聞こうか。君は、どうしたいの?」

「私は、誤解を解きたい。殿下の信頼が欲しいのです。――そして、私の気持ちを知ってほしい」


 二年後、婚約破棄は行われます。その事実は変わりません。

 でも、それまでの間だけでいい。せめて、婚約破棄までの間は、恋人の役目を果たしたい。真摯に殿下とだけ向き合いたい。

 いえ、恋人として、過ごしたいのです。


 ――私にとって、この役目は、もう振りではなくなっていたのです。


「行っておいでよ」

「はい!」


 殿下に――エミリオ様に、私のこの想いを伝えたい。

 私は、クアッド様に見送られて、テラスを後にしました。

 もうだいぶ遅い時間です。殿下はきっと自室へ戻られたのではないでしょうか?

 私は、舞踏会場から王宮の奥の居住区へ向かいました。


 長い廊下を抜けて、殿下の元へ。

 その時です。

 突然開いた扉から伸ばされた手に口を押えられ、私は、その扉の奥へと引き込まれてしまいました。

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