第7話 回想(Side:王太子エミリオ)
二年前。
学園での最高学年を迎えた頃、僕は学生生活に行き詰まりを覚えていた。
王太子という地位は、多くの人々に期待と敬意を強制的に抱かせる。そしてそれは、多くの裁定者を得ることと同義なのだ。
周囲の人々は、僕にとって、裁定者であり、審判を行う者。
彼らは、果たしてこの王子が自分の期待と尊敬に値するのかと常に見定めていた。
周りの目が正直怖かった。
僕は、学業に関して、どんなにがんばっても十本の指に入る程度。剣技に関してはむしろ苦手としていた。
優秀な弟たちに比べて、どう考えても足りない自分。
自分の中身を堂々と晒せるほどの自信か、あるいは、相手の失望に気づかない鈍感さが自分にあればよかった。
しかし、どちらも持ち合わせていない僕は、王太子という殻の中で自分を守って息を潜めるしかなかった。
王太子という地位は、不出来な自分には、重すぎて、息をするのもつらかったのだ。
「姿替え」の魔術を知ったのはそんな頃だった。
姿形、声すらも別人へと変え、何の制約も持たないその魔術。
その魔術を使えば誰も知らない自分になれる。
期待も憧憬も、何も背負わない、何者でもない人間。
魔女グエンドリンに連絡をとると、それを可能とする魔道具はあっけないほど簡単にもたらされた。
そしてそれ以来、僕はその魔道具を使って、放課後に学園内を歩き回るのが日課になった。
誰でもない自分。
もちろん注目するものも誰もいない。
責任もない、人の目も気にならない、解放感に満ちた日々。
王太子という重荷から解放される、束の間の息抜き。
僕は、王太子としての自分と誰でもない自分とを行き来することで精神のバランスを保っていた。
その日の放課後、いつものように魔道具を使って姿を変え中庭を歩いていると、数人の男子生徒が集まっている現場に遭遇した。輪の中心には膝をついた男子生徒。彼は地方の低位貴族の三男だ。よくある高位貴族の一方的な制裁の現場だった。
生徒会に属している僕は、こういった現場の仲裁に入ることはよくあった。たいていは自分が声をかけ、遺憾の意を示すことで事なきを得る。
僕は、とっさに、その時と同じつもりで、彼らに声をかけてしまった。
「何をしているんだ」
一番後ろにいた生徒がこちらを向いた。
自分は手を出さず、一歩引いて様子を見守っていた首謀者だ。
ジェレミア=ヴィルガ。
一つ下の学年に所属する、公爵家の跡取り息子。
僕と違い、文武に優れた優秀な青年。
彼の不敬にも値する冷たい視線に、僕は今の自分の姿が魔法による「仮の姿」であることに気づいた。
彼は、言葉すら発しない。すっと目線を走らせただけだった。
「っくっ」
一瞬何が起きたのかわからなかった。
彼の後ろにいた取り巻きの一人が、僕の肩をつかんで、地面に押さえつけたのだ。
地面に這いつくばり、後ろ手にねじり上げられた腕。
痛みよりも激しい屈辱感に身を震わせた。
いままで跪いたことなどなかった。
「見ない顔だな――俺が知らないということは、大した家門ではないだろう。なぜ声をかけた?」
「間違ったことをしていたからだ」
ジェレミアはそう答えた僕を見下ろしたまま薄く笑った。
「正義感、か。地位も力もない。そんな正義感は、何の役にも立たないんだよ。正義は執行されてこそ正義になりうるんだろう?」
ジェレミアのその言葉を否定したかった。地位と力に関係なく弱き者にも平等に正義は為されるべきだ。公正な審判を下すべき立場の王家の者としてそれは許してはならなかった。
しかし、今の「仮の姿」の自分にはその力はない。
魔術を解くことは、即ち、魔術に関する禁則を破ること。
王家に対しての魔女グエンドリンの信頼を失うこと。
そのような判断を個人のミスで犯してしまうわけにはいかなかった。
先に地面に転がされていた男子生徒と目が合い、情けなさにすぐに自分から目を逸らした。
「お前にも教育が必要なようだな。教えてやる。後ろ盾のない正義感など、自分を惨めにするだけで何の役にも立たないんだよ。お前自身と同じく、無意味で、無価値だ」
「ぐっ」
腹部を蹴り上げられる。
そうだ、僕が仲裁できていたのは「王太子」という肩書があったから。
何を勘違いしていたのだろう。
「僕自身」には、何の力もないのに。
足を踏みつけられる。
自分は「肩書」がないと、何も為すことができない。
情けなさに、声すら出ない。
僕が、あれほど重荷に感じていた「肩書」を捨て去ってみれば「僕自身」には、何の価値もなかったのだ。
あの肩書は、重荷ではなく、僕を守る鎧ですらあったのだと今になってやっと気づいた。
僕は、どれほどに無価値で、無意味な人間なんだ。
人々の目が怖いのは当たり前だ。
張りぼての無価値な人間だと、人々にばれるのが怖かったから。
気づかれないよう、怯えながら「王太子」という鎧に守られて一生を過ごすのか。
そして、いつか、無価値な僕に気づいた人々は、こうやって、僕を引きずりおろし踏みつけるのだろうか?
「そんなことありませんわ」
その、凛とした声が響いたのは僕が絶望に片足を踏み込みかけた時だった。
かすむ目の端で、汚れるのもいとわず僕の脇にしゃがみ込む制服のスカートが見えた。
僕に制裁を加えていた者達は、いつの間にか彼女にその場を明け渡すように下がっていた。
「後ろ盾があろうとなかろうと正義は為されるべきです。そして、それを実行しようとしたこの方の志を私は尊敬いたします」
手にしたハンカチで、頬をなでられる。見上げる先に、わずかに赤毛が揺れた。
「はっ、お前こそ自分が情けなくはないのか? 尊敬するといいながら、お前が俺の前に出しゃばって来られるのは、ヤリス公爵の後ろ盾があってこそだろう。虎の威を借る狐の分際で、何を言っている」
「ええ、その通りですわ、ヴィルガ様。きっと私は伯父様の後ろ盾がなければこの場に足を踏み入れられないでしょう。だからこそ、この方を尊敬するのです――そして、私には今、借りるだけの威があります。だから敢えて申し上げますわ。私は前後の状況は存じ上げません。しかし、暴力に訴えるのは、人としていかがなものかと存じます。王国の礎たる四大公爵の
権力に立ち向かう彼女の堂々とした姿が、神々しく目に焼き付く。
「お前の威勢は悪くないな。いいさ、今回はお前の顔を立ててやろう。だが、お前の家門が落ちぶれた時が見ものだな。リルセット」
「わきまえておりますわ、ヴィルガ様。貴族の栄枯盛衰は常なるもの。私もその時に同じことが言えるとは思いません。でも「今」私には為せるだけの力があります。できることを行わないのは恥ずべきこと。私は、そう思うのです」
「はっ、せいぜい「今」を楽しむがいいさ――行くぞ」
そう言ってジェレミアと、取り巻き達は去っていった。
彼女は、おそらく、二つ下のサリア=リルセット伯爵令嬢だ。ヴィルガ家と同じく四大公爵であるヤリス家当主が溺愛していた妹の忘れ形見。伯爵令嬢でありながら実の息子以上に公爵に愛されている。だからこその後ろ盾。
けれど、ハンカチで切れた口をそっと押えてくれる彼女の手が震えていることに僕はやっと気づいた。
女性の身、それも複数の上級生の男子生徒の前に進み出ていくなど、どれほど勇気が必要だったのだろう。
「君は、勇気があるな」
貴族の栄枯盛衰は、世の習い。
しかし、落ちぶれても彼女は変わらないだろう。
変わらずその正義を貫くのだろう。
「いいえ。私には後ろ盾がありましたもの。あなたの方が勇気がありますわ」
彼女は、先ほどまでの勇ましさが嘘のような、柔らかい微笑みを浮かべた。
その微笑みが、むしろ僕の心をえぐる。
違う。
僕は、自分が「仮の姿」であることを忘れていただけ。
ただのミスだ。彼女に称えられる価値などない。
地面に転がったまま起き上がれない僕に、彼女の瞳が問いかける。
「違うって顔をしてますわよ。でも、そうでしょうか? あなたは、もう一度同じことがあったら、どうされます?」
「――きっと、同じように声をかけただろう」
ためらったのは一瞬だった。
その答えをだした自分にむしろ驚く。
「ほら、ね。多分、あなたはご自分で思ってらっしゃるよりずっと勇気がありますわよ? もう一度言いますわね。地位も力もない。それでも声をかけられたあなたを、私は尊敬いたします」
「ぼ、僕も、僕も、あなたを尊敬します。ありがとうございます」
駆け込むようなお礼は、ジェレミアに制裁を受けていた男子生徒からだった。
僕の行為は、何一つ実を結ばなかった。
けれど、この日、僕は自分の「王太子」以外の価値を見出された。
僕自身すら見失っていた僕の価値を。
腕で顔を隠して、歯を食いしばる自分の前から、いつの間にか彼女は去って行って、その場には、彼女のハンカチだけが残されていた。
この日から僕は変わった。
自分の価値を疑わなくなった。
彼女の認めてくれた僕自身をさらに高めることを目標とした。
そして、サリア。
――君と共に歩む未来を夢見るようになった。
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