第8話 楠木軍起つ

 十三回忌は盛大に執り行われた。

 吉野朝廷側の武将としては異例の規模であった。

 後にも先にもこれほど盛大な法要は行われていない。

 それほど彼が慕われていたと言うことであり、この時の楠木党の勢力が決して小さなものではなかったことの証左でもあった。

 その大法要の後、集まった楠木一族郎党に対し当代当主正行は、高らかに宣言した。


「皆、今日までの艱難辛苦をよう耐えてきた。本日これより我が楠木党は父の仇、足利一族を討つための攻勢にうつる。この中にも父や兄を足利勢のために失った者が多かろう。時は満ちた。この先、いかな苦難の待ち受けていようとも必ずや朝敵足利一門を討ち滅ぼし、後村上の君を京へ遷幸せんこう致さん」


 戦う決心をした正行の行動は早かった。

 まず、正儀を使者にたてて吉野へ合戦に及ぶ旨を伝え、自らは軍団を編成して実戦にあたらせた。

 正儀の参内には万一の事態に対する備えの意味がある。

 出撃した正行の軍勢は五百騎ばかり。

 父の死後、合戦らしい合戦をしていない楠木軍がどれほどの実力を秘めているのかを確かめることが目的だった。

 父の代からの生き残りの老将や北畠顕家の遺していった奥州兵など、百戦錬磨のふるつわものを遊軍に配して住吉や天王寺へと打って出る。

 主力軍はその都度兵を改め、全ての兵に実戦を経験させながらゆっくりと京へ向かっているかのように戦線を拡大して行く。

 「楠木軍動く」の報は、少なからず京を騒がせた。

 それは征夷大将軍の地位に就いた尊氏の心にも大きな動揺を与えていた。

 しかし、そこはさすがに尊氏である。

 狼狽する素振りなど微塵も見せず、ことさら鷹揚に振る舞ってみせた。

 いや、それこそが尊氏の受けた衝撃の大きさの顕れだったのかも知れない。

 幕府軍は初め楠木軍に対してその五倍の軍勢を組織して細川ほそかわ顕氏あきうじを大将に錚々そうそうたる武将を河内に送り込んでいる。

 楠木党の情報網は、すぐさまこれを大将正行の元に届ける。

 情報はいつの時代も優劣を決する重大な要素だ。

 源平合戦における富士川の平家敗走も、関ヶ原での西軍の敗因も、先の大戦で日本軍が悉く玉砕しなければならなかったのも、全ては彼我の情報収集力と判断の差だったと言っても過言ではないと思われる。

 いや、争いばかりではない。

 「その食べ物は栄養か毒か」といった生きて行く上でも情報は必要不可欠な要素なのだ。

 特に弱者はそれを自覚し、積極的に活かす事を心掛けなければ生きて行けない。

 もちろん強者とて情報の価値を軽視すると、桶狭間で討ち取られた今川いまがわ義元よしもとのようにあっけなく終えてしまう。

 正行は頻々ともたらされる幕府軍の情報に接し、改めて父の偉大さを知ることとなった。

 絵図面には瞬く間に彼我の勢力がまざまざと浮かび上がり、敵となる部隊の行動が手に取るように判るのだ。

 正行は我知らず笑い出し、隣でこの図上の進軍を睨みつけている正時に言った。


「正時、父は鳥の目を持っていたのだな」


「確かに、これだけつぶさに知れておれば安心して策を施せようが……」


 と、同意はするが相変わらず浮かない顔をしている。

 いや、浮かないと言うより厳しい表情と言った方がいい。


「何が困る」


「俺の策には兵が足りません」


 しかし、正行の笑みは消えない。


「どうせぶつかり合うことばかり考えているのだろう」


「ぶつかり合わずにどのように戦をすると言うのですか」


「ぶつかり〝合う〟必要はない。こちらが一方的に攻めるだけよ」


 この兄にはどうやらこれほどの大軍を相手にしてもわずかな被害で退けられるような、正時には思いもつかない思案がすでに浮かんでいるらしい。

 しかし、正時に判ったのは「思案がある」と言う事だけで、兄はそれを語ろうとはしない。


「正時、楠木には楠木の戦い方がある。吉野朝廷で重きをなす武家の一門となったとて、父の代、わずか十五年前までは河内に名高い悪党ぞ。戦の仕方まで武家を真似るな」


 正行は、一時は住吉、天王寺あたりまで攻めていた兵をあっさり本拠である楠木館まで引き揚げさせた。

 体面的には大軍に恐れをなして逃げ帰り、態勢を整えている風である。

 そんな中、太平記の記述によれば九月の十七日、顕氏率いる幕府軍は正午に藤井寺に着陣した。

 藤井寺陣地から楠木館までは七里ほど、行軍すれば半日ほどの距離である。

 ここで正行と顕氏の情報収集能力と判断能力の差が見られる。

 顕氏は先に楠木軍が抵抗らしい抵抗もせずに自らの館に引き上げたと言う報せを受けている。

 事実、ここ本軍は藤井寺までの行軍中に楠木軍と小競り合い一つしていない。

 もとよりわずか五百騎ばかりの軍勢に対してこちらは合して三千余騎。

 わけなく踏み潰せると高を括ってきているのだから、敵は余程の覚悟をしなければ攻めてなど来ないだろうし、攻めて来るとしても今日明日と言うことはあるまいと考えても無理はない。

 その見積りがあればこそ、ここ藤井寺の陣地で兵を休ませて来るべき合戦に備え、英気を養おうと思ったのだろう。

 この時点ですでに二つ、念頭に置いておかなければならない情報を拾い落としている。

 第一に「本当に楠木軍は全軍が楠木館に退却したのか」という確認である。

 文献にはその辺りについて詳しい記述は残されていないが、太平記の記述通りに甲冑を脱ぎ馬の鞍まで下ろして休憩したと言うのが本当だとすれば、これほど相手をくびった軍勢もない。

 戦には相手があり、互いに相手を打ち負かす事を目的としていると言う事を忘れた愚かとしか言いようのない判断だ。

 第二に此度の相手が、稀代の軍略家の遺児と彼が手足に使っていた楠木党だという認識の欠落である。

 彼が常に寡兵を持って大軍に当たり、希略を駆使して大打撃を与え続けてきたと言う過去を見逃していると言う点だ。

 確かに湊川で自刃して十二年が経っている。

 経ってはいるが楠木流の軍略は確実にその長子に宿っていると見て間違いない。

 長い沈黙を破り電光石火で住吉、天王寺を急襲するなど、相手の虚を衝く奇襲攻撃から始まっているのだ。

 京から軍勢が出て来たと聞けば瞬く間に兵を引き揚げて本拠に籠ったと言うのならば、何か考えがあるのではと疑って然るべきではなかろうか。

 そして、最大の判断過誤が先にも述べた全軍に甲冑を脱がせ、馬の鞍を下ろすほどの完全休息を行ったことだ。

 この戦の敗北原因は、この一事に尽きる。

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